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[[1216年]]に[[メルキト]]族追討に派遣され、戦死したメルキト王トクトア・ベキの世嗣たちを討ち取るなど功績を挙げた。[[1219年]]秋、チンギスの大西征に従い、本営である中軍に近侍し、ついで[[サマルカンド]]から逃亡した[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]を追撃した。これは取り逃がしたものの、その後[[ジェベ]]とともに各々1万騎を率いてアラーウッディーン捜索のため[[ホラーサーン]]から[[エルブルズ山脈]]南麓を経由して[[イラン]]西北部、[[イラク]]、[[アゼルバイジャン]]、[[グルジア]]の各地を劫略し、[[カフカース山脈]]を越境。ロシア平原など東欧に進出して、[[カルカ河畔の戦い]]において[[キエフ]]をはじめとする[[ルーシ]]諸侯の大軍勢を打ち破るという大功を挙げている。
 
[[1227年]]のチンギスの死後も[[オゴデイ]]に従って宿老として活躍し、[[1232年]]の[[トルイ]]指揮下で左翼軍団の千戸長として従軍し、汴京([[開封]])陥落など[[金 (王朝)|金]]の滅亡戦でも功績を挙げた。その後は[[1236年]]にはじまる[[バトゥ]]の[[ヨーロッパ]]遠征に副司令格として本営・中軍の宿将として従軍し、さらに功績を挙げたが、オゴデイの死とともにヨーロッパ遠征軍が帰還すると隠退し、[[グユク]]治世の[[1248年]]、生地のトウラ河畔にあったウリャンカイ部の牧地において72歳で死去したという。子のウリヤンカダイ、孫の[[アジュ]]も軍人としてモンゴルに仕えた。
 
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