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その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン(Qa'an)を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心を[[中国]]の[[華北]]に移動させるなど様々な改革を打ち出し、彼の時代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に[[東アジア]]を支配する[[元 (王朝)|元]](大元[[ウルス]])に変貌した。
 
== 即位以前生涯 ==
=== 即位以前 ===
クビライは、1215年に[[チンギス・カン]]の四男[[トルイ]]の子として生まれた。母は[[ケレイト]]部族出身のトルイの正夫人[[ソルカクタニ・ベキ]]で、トルイがソルカクタニとの間に設けた4人の嫡子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となった[[モンケ]]、弟に[[イルハン朝]]を開いた[[フレグ]]、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争った[[アリクブケ]]がいる。青年時代の事歴についてはほとんど知られていない。
 
[[1251年]]に兄モンケがモンゴル皇帝(カアン)の座に就くと、[[ゴビ砂漠]]以南の南[[モンゴル高原]]・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。[[1252年]]には自身が所領とする京兆([[唐]]の[[長安]]、現在の[[西安]])を中心とする[[陝西省|陝西]]を出発して[[雲南省|雲南]]への遠征に出発、[[南宋]]領を避けて[[チベット]]の東部を迂回する難行軍の末に翌[[1253年]]に雲南を支配する[[大理国]]を降伏させた。
 
雲南からの帰還後は[[金 (王朝)|金]]の旧都である中都(現在の[[北京市|北京]])の北、南モンゴル(現在の[[内モンゴル自治区]])中部のドロン・ノールに幕営([[オルド]])を移し、後方から[[江南]]の南宋および[[朝鮮半島]]の[[高麗]]征服の総指揮を取った。クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(のちの[[上都]])を築き、[[姚枢]]ら[[漢民族|漢人]]のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。
 
しかし、南宋を早急に併合することを望むカアンのモンケはクビライの慎重策に不満を持ち、[[1256年]]に南宋への戦線を自らの陣頭指揮により行うことを決し、クビライをこの作戦の責任者から更迭した。[[1258年]]、自ら陝西に入って[[親征]]を開始したモンケは、[[河南省|河南]]から[[四川省|四川]]の南宋領を転戦したが、翌[[1259年]]に軍中で流行した疫病に罹って病死した。
 
=== 皇帝位をめぐる争い ===
{{main|モンゴル帝国帝位継承戦争}}
モンケ・カアンの急死により、モンケの年若い息子たちにかわって3人の弟たちが後継者となる可能性が生じた。三弟のフレグは遠く[[イラン]]において[[西アジア]]の征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のクビライと末弟のアリクブケが当事者となった。
 
アリクブケはこのとき首都[[カラコルム]]においてモンケの留守を守っており、モンケの重臣たちやモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立った。一方のクビライはモンケが死んだとき[[長江]]の中流域で転戦していたので、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになった。
 
[[1260年]]、クビライの本拠地ドロン・ノールでクビライ支持派による[[クリルタイ]]が開かれ、クビライの皇帝(カアン)即位を一方的に宣言する。アリクブケもこれに対抗してカアン即位を宣言し、モンゴル帝国はクビライとアリクブケの2人のモンゴル皇帝(カアン)が並び立つ帝国の南北分裂に発展した。
 
この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたクビライ側が緒戦の[[シムルトゥ・ノールの戦い|シトム・ノールの戦い]]に勝利し、早々に中国と高原の大半を制覇した。一方のアリクブケは高原北西部の[[オイラト]]部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻すが、中国を抑えるクビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥った。[[1264年]]、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となった。
 
=== 新国家の形成 ===
 
クビライは1260年に即位すると、モンゴル王朝で初めての中国風の[[元号]]を立て、漢人官僚を集めた行政府である[[中書省]]を新設した。中書省には[[三省六部|六部]]が置かれて旧来の[[尚書省]]の機能を兼ねさせ、華北の庶政を取り仕切る最高行政機関とした。続いて軍政を司る[[枢密院]]、監察を司る[[御史台]]などの諸機関が相次いで設置されて、中国式の政府機関が一通り整備された。
 
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また、クビライは[[チベット仏教]]の僧[[パクパ]](パスパ)を国師として[[仏教]]を管理させ、[[モンゴル語]]を表記する文字として[[チベット文字]]をもとに[[パスパ文字]]を制定させるなど、モンゴル独自の文化政策を進めた。中国王朝の伝統的なイデオロギーである[[儒教]]は特別に重視はされず、[[科挙]]の復活もクビライのもとでは行われなかった。
 
=== 外征と内乱 ===
 
[[ファイル:Liu-Kuan-Tao-Jagd.JPG|thumb|right|280px|クビライの狩猟図]]
軍事的には、アリクブケの乱以来、[[中央アジア]]の[[オゴデイ・ハン国|オゴデイ家]]と[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]がハーンの権威から離れ、本来はハーンの直轄領であった中央アジアの[[オアシス]]地帯を横領、さらにクビライに従う[[甘粛省|甘粛]]方面の諸王や[[天山ウイグル王国]]を圧迫し始めたので、多方面からの対応が必要となった。
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そこで、クビライはチャブイ夫人との間に設けた3人の嫡子[[チンキム]]、[[マンガラ]]、[[ノムガン]]をそれぞれ燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせた。安西王マンガラはクビライの旧領京兆を中心に中国の西部を、北平王ノムガンは帝国の旧都カラコルムを中心にモンゴル高原をそれぞれ担当し、燕王チンキムには中書令兼枢密使として華北および南モンゴルに広がる元の中央部分の政治と軍事を統括させて、クビライは3子率いる3大軍団の上に君臨した。
 
[[1276年]]には将軍[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]率いる大軍が[[南宋]]の都[[杭州市|杭州]]を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服した([[モンゴル・南宋戦争]])。この前後にクビライは[[アフマド・ファナーカティー|アフマド]]や[[サイイド・アジャッル|サイイド]]ら[[ムスリム]](イスラム教徒)の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、[[運河]]を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、モンゴル帝国の経済的な発展をもたらした。これにともなって東西交通が盛んになり、クビライ治下の中国には[[ヴェネツィア]]出身の商人[[マルコ・ポーロ]]ら多くの西方の人々([[色目人]])が訪れた。
 
中国の外では、治世の初期に服属した[[高麗]]で起こった[[三別抄]]の反乱を鎮圧し、王太子にモンゴルの王女を降嫁して国王を通じた高麗支配を確立した。また[[1289年]]には[[ビルマ]]の[[パガン王朝]]を滅亡させ、[[傀儡政権]]を樹立して一時的に[[東南アジア]]まで勢力を広げた。しかし、[[日本]]への2度の遠征([[元寇]])や、[[ベトナム]]の[[陳朝]]や[[チャンパ王国]]、[[ジャワ島]]の[[マジャパヒト王国]]などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け、大きな成功は収められなかった。
 
モンゴルの同族が支配する中央アジアに対しては、[[1275年]]にモンゴル高原を支配する四男の北平王ノムガンが[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ家]]の首都[[アルマリク]]を占領することに成功したが、翌年モンケの遺児[[シリギ]]をはじめとするモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家など、ノムガンの軍に従軍していた王族たちが反乱を起こした。司令官ノムガンは捕らえられてその軍は崩壊し、これをきっかけにオゴデイ家の[[カイドゥ]]が中央アジアの諸王家を統合して公然とクビライに対抗し始めた。
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クビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に振り向けカイドゥを防がせたが、[[1287年]]には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主[[ナヤン]]を指導者として叛いた。老齢のクビライ自身がキプチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて[[親征]]し、[[遼河]]での両軍の会戦で勝利した。ナヤンは捕縛・処刑され、諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧した。クビライは東方三王家である[[ジョチ・カサル]]家、[[カチウン]]家、[[テムゲ・オッチギン]]家の当主たちを全て挿げ替えた。カイドゥはこの混乱をみてモンゴル高原への進出を狙ったが、クビライは翌年ただちに[[カラコルム]]へ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。カチウン家の王族カダアンがなおも抵抗し、各地で転戦して[[高麗]]へ落延びてこの地域を劫掠したが、[[1292年]]に皇孫[[テムル]]が派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束した。('''ナヤン・カダアンの乱''')
 
=== クビライの晩年 ===
 
クビライの政権が長期化すると、行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王チンキムの権勢が増し、[[1273年]]に[[皇太子]]に冊立された。一方、アフマドも南宋の征服を経て華北と江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となり、やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化した。
 
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一方、カイドゥのモンゴル高原に対する攻撃はますます厳しくなり、元軍は敗北を重ねた。外征を支えるためにクビライが整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は度重なる外征と内乱によって悪化する一方であった。[[1287年]]に財政再建の期待を担って登用された[[ウイグル|ウイグル人]]財務官僚[[サンガ]]も[[1291年]]には失脚させられ、クビライの末年には元は外征と財政難に追われて日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なかった。
 
[[1293年]]、クビライは高原の総司令官[[バヤン]]を召還し、チンキムの子である皇孫[[テムル]]に皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出したが、それからまもなく翌[[1294年]][[2月18日]]に大都宮城の紫檀殿で病没した。遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所である[[モンゴル高原]]の起輦谷へ葬られた。同年5月10日、クビライの後継者となっていた皇孫[[テムル]]が[[上都]]で即位するが、その治世下でカイドゥの乱は収まって、クビライの即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになる。
 
テムルが即位した1294年[[6月3日]]には、聖德神功文武皇帝の諡と、廟号を世祖、モンゴル語の尊号をセチェン・カアン(薛禪皇帝)と追贈された。
 
クビライ 宗室表
== 宗室 ==
=== 父母・兄弟 ===