「赤松政則」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 少年期 ===
康正元年(1455年)、[[赤松満祐]]の弟・[[赤松義雅]]の子・[[赤松時勝]](赤松性存)の子として生まれる。[[赤松氏]]は[[嘉吉]]元年([[1441年]])に[[赤松満祐]]が[[室町幕府]]第6代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義教]]を殺害するという[[嘉吉の乱]]で幕府軍に攻められて滅亡していた。そのため、父の時勝と政則は京都[[建仁寺]]で養育されていた。
 
政則が生まれる前の年([[享徳]]3年・[[1454年]])に同族の[[赤松則尚]]が播磨で挙兵したが、翌年には[[山名宗全]]に討たれている。
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[[寛正]]6年([[1465年]])に[[元服]]する。[[文正]]元年([[1466年]])、[[細川勝元]]らにより第8代将軍・[[足利義政]]の近臣であった[[伊勢貞親]]や禅僧の[[季瓊真蘂]]、[[斯波義敏]]らが政界を追われる[[応仁の乱#文正の政変|文正の政変]]が起こると、政則も失脚した。しかし、勝元の支援を受けることで政界に復帰する。
 
[[応仁]]元年([[1467年]])からの[[応仁の乱]]では、東軍([[細川勝元]]側)に与したことにより、[[赤松氏]]の旧領であった播磨・[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]を回復する(加賀半国は[[富樫政親]]が奪回)。[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])には[[侍所]]頭人に任じられる。
 
=== 山名氏との対立 ===
ところが播磨をはじめ、山陽に勢力を回復したために山陰に勢力を張る宿敵・[[山名政豊]]との対立・抗争が起こり、[[応仁の乱]]の収束後も抗争は続いて、[[文明_(日本)|文明]]15年([[1483年]])に[[浦上則宗]]より福岡城への救援を求められたが、援軍を送る一方[[山名氏]]の本領である但馬攻めにこだわり真弓峠にて[[山名政豊]]に大敗し、逆に播磨へと追撃されて福岡城も陥落してしまった。その失策により[[浦上則宗]]・[[小寺則職]]ら重臣らがいったん実権を握り、政則は堺へと出奔した。
 
則宗は一族の[[有馬澄則]]を擁立する動きを見せるなど分裂の様相をみせるが、この内紛を突いた山名氏の進撃により窮地に陥った為、足利義政の仲介により政則と和解する。その後5年に渡る攻防が続き、[[長享]]2年([[1488年]])に山名勢を駆逐して領国支配体制を確立した。
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== 人物・逸話 ==
*[[征夷大将軍|将軍]]・足利一門以外の武家の三位叙位は、政則が初である。
*[[能]]や[[猿楽]]を奨励するなど一流の文化人として名を馳せるが、猿楽師を家臣にしようとして家中での反感を買ったこともあった。
*[[大名]]にしては珍しく[[刀工]]としても一流で、名工・長船宗光に師事したと言われ、後世に幾つかの名刀を残している。そのほとんどが家臣に与えられたものである。<ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/kyo-bunka/bunkazai/himeji/h124.html 赤松政則刀]</ref>