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'''劉継元'''(りゅう けいげん、? - [[992年]])は[[五代十国時代|十国]]・[[北漢]]の第4代皇帝。生母は[[薛釗]]の元で北漢の第3代皇帝[[劉継恩]]を儲けているが、劉薛釗が劉旻の兄劉知遠([[後漢 (五代)|後漢]]の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ劉継元を儲けている。つまり、継元は継恩の異父弟である。継元は父母が共に死去すると北漢の第2代皇帝[[劉鈞]]に養子として迎えられた。
 
天会12年([[968年]])、劉鈞が没し劉継恩が帝位を継ぐと、劉継元は太原尹に任じられた。同年、劉継恩が[[侯霸栄]]により殺害されると、[[司空]]である[[郭無為]]により皇帝に推戴された。即位後は[[遼]]との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格の一面も有しており、養母である郭皇后及び劉旻の子を殺害し、また反抗する部下も一族誅滅に処すなどを行い、国内は大いに乱れた。