「カミンスキー旅団」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録) m ロボットによる 追加: uk:29-а гренадерська дивізія СС «РОНА» (1-а російська) |
編集の要約なし |
||
5行目:
== 沿革 ==
[[1941年]][[6月22日]]、ドイツ軍は、[[独ソ戦]]の開始に伴い、[[ソビエト連邦]]に侵攻し広大な地域を[[占領]]した。
パルチザンは、しばしば食糧等の物資を調達するために周辺の町や村を襲撃していたことから、
自警組織が結成された直後、その町は、ドイツ軍によって[[自治権]]が認められた。そして、反共産主義者のロシア人やベラルーシ人も協力に訪れるようになり、自警組織は市民軍に拡大した。
19行目:
カミンスキーは、この市民軍に公式の名称として「ロシア国民解放軍」という名称を付け、戦闘部隊としてドイツ軍に協力することを申し出た。ドイツ側はこれを受け入れ、かつ一層の協力の報酬として[[赤軍]]から捕獲した[[野砲]]36門及び[[T-34]]戦車24両を与えた。これにより解放軍の戦力は大きく増強された。
[[1943年]][[7月4日]]から開始された[[ツィタデレ作戦]]で解放軍は、ドイツ軍の補給ラインを守る戦いに参加
その後、ツィタデレ作戦の失敗とソビエト連邦政府による[[恩赦]]等をちらつかせた宣伝工作により、解放軍からの脱走者が相次ぎ、解放軍は維持が不可能と思われる状況になり、ついには第2[[連隊]]長がパルチザンへの寝返りを画策した。これは事前に暴露され事なきを得たが、事情を知ったカミンスキーは連隊本部へ直接赴き、第2連隊長を彼の部下の目の前で処刑して解放軍の崩壊を防いでいる。
39行目:
責任者のカミンスキーは、パルチザン掃討任務において徹底した態度で臨み、捕らえたパルチザンを虐殺しているが、これはカミンスキーがソビエト連邦政府によって[[ラーゲリ]]に送られたことも関係していると思われる。このことについて武装親衛隊当局は、肯定的な解釈をしていたようであり、カミンスキーはパルチザン掃討の功績により、2級及び1級[[鉄十字章]]を授与されている。
また、部隊の規律違反に該当する問題行動の頻発については、戦況がドイツ
特に[[1944年]]8月の[[ワルシャワ蜂起]]で鎮圧のために
ワルシャワ蜂起における蛮行に関して、詳細な記録が残っているものを以下に掲げる。
|