'''第15SS武装擲弾兵師団 (ラトビア第1)'''([[ドイツ語|独]]'''15. Waffen-Grenadier-Division der SS (lettische Nr. 1)'''[[ラトビア語]]'''15. ieroču SS grenadieru divīzija (latviešu Nr. 1)''')は[[武装親衛隊]]の師団である。
第15SS武装擲弾兵師団 ([[ラトビア1941年]]第1)は[[ドイツ国防軍6月22日]]のから始まった[[バルバロッサ作戦]]に引き続いては、[[ドイツ国防軍]]及び武装親衛隊がに多大な人的資源消耗を求めて設立され強いた。東方帝国委員会(Reichskommissariat Ostland)による募集は成功これを収め補うべく、武装親衛隊は[[ドイツ人]]に限らず、占領地の住民から[[兵士]]を供給すべく行動を開始する。[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]は後の第15SS武装擲弾兵師団の中核となるラトビアSS義勇連隊募集業務を編成東方帝国委員会(Reichskommissariat Ostland)に行わせ、[[1942年]][[8月]]までに[[バルト三国]]で武装親衛隊の[[連隊]]をが設立しされていった。このうちの[[ラトビア]]SS義勇連隊が第15SS武装擲弾兵師団の中核となる。
しかしこれらの連隊は小規模であり、広大な[[独ソ戦|東部戦線]]で活動するには不十分であったため、ラトビアSS義勇連部隊はSS義勇師団に昇格、後に第15番目規模の武装親衛隊師団の指定をうけ拡大が図られた。ヒムラーは師団としての定数を確保するために[[1943年]]に、[[1915年-1924]]~[[1924年]]生まれの[[男性]]を[[徴兵]]、さらに[[1944年]]には[[1904年-14]]~14年生まれと[[1925年-26]]~26年生まれも強制的に徴兵した。これらの人員によりラトビア徴収兵SS義勇連隊は1944年の[[赤軍|ソビエト赤軍]]SS義勇師団による反撃作戦昇格、後に間に合第15番目の武装親衛隊師団の指定をうけた。しかい、[[親衛隊 (ナチス)|SS]]の名称を付は受けられず、第15SS武装擲弾兵師団と表記されたることになる。しかし戦況は[[1944年]]の[[赤軍|ソビエト赤軍]]による反撃作戦により極度に悪化、師団はすぐに[[ポメラニア]]防衛線で包囲戦に投入されるが、その戦力はが10分の1になってるほどの激闘を戦いた抜くことになる。
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-J16133, Lettland, Appell der SS-Legion.jpg|175px|thumb|left|行進する師団兵]]
第15SS武装擲弾兵師団はポメラニアの壁(:en:Pomeranian Wall)でその防衛任務に就いた。[[1945年]][[2月2日]]、師団は有刺鉄線で囲んだ[[人民軍 (ポーランド)|ポーランド第1軍]]所属歩兵第1師団の第3歩兵連隊第4中隊の32人の[[捕虜]]を燃え盛る納屋でに閉じ込め、焼殺害するという[[戦争犯罪]]を犯している。<ref>Majewski, Ryszard:'' Waffen SS. Mity i rzeczywistość. '', Wrocław : Krajowa Agencja Wydawnicza, 1983, s. 247, ISBN 83-0300-102-7</ref><ref>''Polski czyn zbrojny w II wojnie światowej.'', Warszawa : Wydawnictwo Ministerstwa Obrony Narodowej, 1988, s.531 (tom 3), ISBN 83-1107-038-5</ref><ref>[http://sente.webpark.pl/walpom.htm Ważniejsze bitwy na Wale Pomorskim podczas II wojny światowej ]</ref>
その後、生き残ってソビエト赤軍の捕虜になることを恐れた師団の残存兵は[[1945年]]、[[ベルリン]]における[[ベルリンの戦い|最後の戦い]]で必死の戦いを見せた。[[エルベ川]]近郊のGüterglückで最終的にVilis Janums[[親衛隊大佐]]に率いられた師団の残存兵は[[エルベ川]]近郊のGüterglückで[[アメリカ軍]]に[[降伏]]した。
==脚注==
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