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長増が宿老として復帰を果たすのは、[[二階崩れの変]]が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年([[1550年]])のことである。以後は大友三老の一人として[[臼杵鑑速]]や[[吉弘鑑理]]と共に重用された。
 
長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また[[日向国|日向]]の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には[[佐伯惟教]]らの苦戦のため、[[志賀親守]]と共に出陣。[[小原鑑元]]の謀反鎮定や[[秋月文種]]討伐、門司合戦、に参加。[[龍造寺隆信]]の討伐には先だって[[立花道雪|戸次鑑連]]と出陣。[[高橋鑑種]]の討伐には[[斉藤鎮実]]と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。
 
[[弘治_(日本)|弘治]]3年([[1557年]])より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった[[毛利氏]]との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、[[永禄]]12年([[1569年]])に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣[[山中幸盛]]に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の[[米原綱寛]]に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の[[村上武吉]]を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを[[毛利元就]]の策略と疑い、8月9日に大友水軍の[[若林鎮興]]に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに[[大内輝弘]]に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて[[吉川元春]]、[[小早川隆景]]の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の[[周防国|周防]]に侵攻させた。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、[[長門国|長門]]を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである([[大内輝弘の乱]])。