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{{基礎情報 武士
'''北条 政長'''(ほうじょう まさなが [[1250年]]([[建長]]2年) - [[1301年]][[8月18日]]([[正安]]3年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]))は日本中世[[鎌倉時代]]の武士。父は[[北条政村]]、母は[[三浦重澄]]の娘<ref>[[大日本史料]]収録の[[佐野本系図]]より。</ref>。兄に通時、時通、厳斎、[[北条時村 (政村流)|時村]]、宗房、弟に政顕、政方、他妹数名がいる。[[系図纂要]]では通称を相模五郎としており、野辺本[[北条氏系図]]には四郎と記載されている。しかし、系図纂要、北条氏系図など、複数の史料に、すぐ上の兄宗房の弟であることが記載されており、なおかつ、それらの史料は宗房を「新相模四郎」と称していることから、政長は五男に相違ないとみなされている<ref name="jiten">「北条氏系譜人名辞典」、北条政長の項目より(執筆者は[[山野井功夫]])</ref>。
| 氏名 = 北条政長
| 時代 = [[鎌倉時代]]後期 - 後期
| 生誕 = [[建長]]2年([[1250年]])
| 死没 = [[正安]]3年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1301年]][[8月18日]])
| 改名 =
| 別名 = 相模五郎、または四郎
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = 駿河守
| 幕府 = [[鎌倉幕府]] 五番[[引付衆|引付]]頭人、[[評定衆]]
| 主君 =
| 氏族 = [[北条氏]] [[北条氏 (政村流)|政村流]]
| 父母 = [[北条政村]]、[[三浦重澄]]の娘
| 兄弟 = 通時、時通、厳斎、[[北条時村 (政村流)|時村]]、宗房、'''政長'''、政顕、 <br/> 政方、他
| 妻 = [[長井時秀]]の娘
| 子 = 師村、政泰、'''[[北条時敦|時敦]]'''、他
| 特記事項 =
}}
 
'''北条 政長'''(ほうじょう まさなが)は[[鎌倉時代]]中期から後期にかけての武将。[[北条氏]]の一門。父は7代[[執権]]・[[北条政村]]、母は[[三浦重澄]]の娘<ref>[[大日本史料]]収録の[[佐野本系図]]より。</ref>。
妻は[[長井時秀]]の娘で、彼女との間に嫡男[[北条時敦|時敦]]を設けている。その他、師村、重村、政村などの子がいる。正宗寺本[[北条系図]]によれば、政長の子に、同名の「政長」が、更に、政長の父政村と同名の「政村」なる人物が見られるが、親子で同じ名前を名乗ったりするなど不自然ではないかと指摘<ref name="jiten"/>されており、誤記の可能性がある。
 
'''北条 政長'''(ほうじょう まさなが [[1250年]]([[建長]]2年) - [[1301年]][[8月18日]]([[正安]]3年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]))は日本中世[[鎌倉時代]]の武士。父は[[北条政村]]、母は[[三浦重澄]]の娘<ref>[[大日本史料]]収録の[[佐野本系図]]より。</ref>。兄に通時、時通、厳斎、[[北条時村 (政村流)|時村]]、宗房、弟に政顕、政方、他妹数名がいる。[[系図纂要]]では通称を相模五郎としており、野辺本[[北条氏系図]]には四郎と記載されている。しかし、系図纂要、北条氏系図など、複数の史料に、すぐ上の兄宗房の弟であることが記載されており、なおかつ、それらの史料は宗房を「新相模四郎」と称していることから、政長は五男に相違ないとみなされている<ref name="jiten">「北条氏系譜人名辞典」、北条政長の項目より(執筆者は[[山野井功夫]])</ref>。
 
妻は[[長井時秀]]の娘で、彼女との間に嫡男[[北条時敦|時敦]]を設けている。その他、師村、重村、政村などの子がいる。正宗寺本[[北条系図]]によれば、政長の子に、同名の「政長」が、更に、政長の父政村と同名の「政村」なる人物が見られるが、親子で同じ名前を名乗ったりするなど不自然ではないかと指摘<ref name="jiten"/>されており、誤記の可能性がある。
 
政長は、政村流の中では政村の嫡男時村に継ぐ地位を幕府内で確保していた。1277年(建治3年)、[[北条貞時]]が元服した際には、[[北条顕時]]と共に甲冑を献上する役を担当した。
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1278年(弘安元年)、29歳で[[引付衆]]に任じられ、1284年(弘安7年)には評定衆の一員となる。同年、[[駿河国|駿河守]]に任命され、1295年(永仁3年)まで務めた。1286年(弘安9年)に引付の五番頭人に任ぜられた。1295年(永仁3年)の正月の[[椀飯]]の儀式では[[御剣]]献上の役目を任されている。1301年(正安3年)7月14日、数え年52歳で没した。
 
和歌、書道にも長じ、[[続拾遺和歌集]]」「』『[[新後撰和歌集]]」「』『[[玉葉和歌集]]」「』『[[続千載和歌集]]など、複数の勅撰集に八首の歌が収録されている。
 
== 脚注 ==
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<references />
 
== 参考文献 ==