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== 政治活動 ==
 
1980年代から1990年代にかけては[[朱鎔基]]、[[呉邦国]]、[[黄菊]]など上海閥の下で仕事を共にし薫陶を受ける。2002年2月、代理市長から市長に昇格するが、黄菊の中央入りで市トップの党委書記となり、中央委員候補から一気に中央政治局入りを果たす。[[曽慶紅]]と同じこの強引な昇格には[[江沢民]]の強い力が働いた。後任の市長には当時48歳と歴代最年少で[[胡錦濤]]派の[[韓正]]が射止めた。
 
[[上海万博]]招致には国家万博招致委員会副主任。江沢民、朱鎔基の強い支持の下、[[呉儀]]国務委員、[[唐家セン]]外交部長(いずれも当時)らと共に誘致合戦を戦い、見事2010年の開催招致に成功した。
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== 逮捕 ==
2006年7月、社会保険局長の[[祝均一]]が基金の不正使用容疑で中央規律検査委員会の審査対象になると、市長の[[韓正]]と共に北京に呼び出され、「中央が法に照らして事件捜査をすること」を支持。8月14日、祝均一が解任され、25日には前の秘書で7月まで上海市委員弁公庁副主任を兼務していた上海市[[宝山区 (上海市)|宝山区]]の秦裕区長にも「重大な規律違反」の可能性があると新華社に報じられた。融資先の企業家である[[張栄坤]]は黄菊一家とも密接な関係であり、六中全会前に陳良宇など上海閥への延焼はあるのかどうかが注目されていた。
 
その間も陳良宇は[[汚職]]撲滅をアピールし、解任5日前の9月19日にも市党委常務委員会を主催して「中央の指示に基づいてやれ」との演説もしていた。ところが24日に党中央政治局会議で「社会保障基金の不正使用」「地位を利用した縁者の優遇」などの嫌疑により、党委書記など上海市の一切の職務は免職され、中央政治局委員、中央委員の職務を停止された。2007年3月に[[習近平]]が正式に任命されるまで、党委書記は市長で常務副書記の韓正が代行した。規律委員会が陳良宇解任後上海汚職疑惑を調査しているが、後になり側近が新たに調査対象になった。
犯罪問題は司法機関に送付し、法に基づいて審理される。元北京市党委書記であった[[陳希同]]も党籍剥奪後に逮捕された。職権乱用による[[国家財産]]損害額は、300[[億]][[人民元]]にのぼるとみられている。
また、陳の子息も逃亡先の[[マレーシア]]で逮捕され、2008年執行猶予付きの実刑判決を受けた。