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'''コンスタンティン・[[プリンス|プリンツ]]・フォン・バイエルン'''([[ドイツ語]]:'''Konstantin Prinz von Bayern''', 1920年8月15日 - 1969年7月30日)は、[[ドイツ]]のジャーナリスト、政治家。旧[[バイエルン王国]]の統治者[[ヴィッテルスバッハ家]]の一員で、全名は'''コンスタンティン'''・レオポルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・ゲオルク・タドイス・ヨーゼフ・ペトルス・ヨハンネス・アントニウス・フランツ・フォン・アッシジ・アスンプティオン・エト・オムネス・サンクティ・'''プリンツ・フォン・バイエルン'''('''Konstantin''' Leopold Ludwig Adalbert Georg Thadeus Josef Petrus Johannes Antonius Franz von Assisi Assumption et omnes sancti '''Prinz von Bayern''')。
 
バイエルン王子[[アーダルベルト・フォン・バイエルン (1886-1970)|アーダルベルト]]とその妻のゼーフリート・アウフ・ブッテンハイム伯爵夫人アウグステの長男として、[[ミュンヒェン]]で生まれた。コンスタンティンは1939年に軍隊に入隊したが、1941年に[[ナチス・ドイツ]]政府が定めた[[王族兵役免除措置]]{{enlink|Prinzenerlass|a=on}}によって退役を余儀なくされ、1942年より[[フライブルク大学]]で法学を学ぶことになった。1944年に大学を卒業すると[[カールスルーエ]]高等地方裁判所で勤務するようになったが、1944年7月20日の[[ヒトラー暗殺計画]]の直後、一族の多くの人々と一緒に逮捕され、[[第2次世界大戦]]終結まで投獄されていた。
 
戦後、コンスタンティンは「ノイ・レヴュー(Neu Revue)」誌、「[[南ドイツ新聞]]」、人気のある「ブンテ(Bunte)」などの誌上でジャーナリストとしてとして活動し始めた。1958年には教皇[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]の伝記を執筆している。コンスタンティンはバイエルンの最大政党の一つ[[キリスト教社会同盟]]に入党しており、1962年にはバイエルン州議会議員に、1965年には[[ドイツ連邦議会]]議員になっている。
 
1969年7月30日、コンスタンティンは[[バーデン=ヴュルテンベルク州]][[へヒンゲン]]近郊で飛行機事故に遭い亡くなった。