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'''クロムウェルのアイルランド侵略''' (The Cromwellian conquest of Ireland。1649-53) とは、[[三王国戦争]]のさなか、[[オリヴァー・クロムウェル]]によって率いられた[[イングランド議会]]軍による[[アイルランド]]再占領のことである。1649年、クロムウェルは彼の[[ニューモデル軍]] ([[:en:New Model Army|New Model Army]]) とともに、イングランドの[[長期議会]]の代理としてアイルランドに上陸した。[[アイルランド反乱 (1641)|1641年のアイルランド反乱]]以来、アイルランドのおおむね[[アイルランド・カトリック同盟]]の統治下にあったが、この同盟は[[イングランド内戦]]において敗北した[[国王派]] ([[:en:Cavalier|Cavalier]]) と1649年に同盟を結んでいた。クロムウェルとその軍隊はアイルランドにおいて同盟と国王派の連合軍を撃破、アイルランドを占領した。これにより[[アイルランド同盟戦争]] ([[:en:Irish Confederate Wars|Irish Confederate Wars]]) は終結した。クロムウェルは[[ローマ・カトリック]]教徒 (アイルランド人口の大多数) に対する[[刑罰法 (アイルランド)|刑罰法]] ([[:en:Penal laws|Penal laws]]) を可決させ、彼らから大量の土地を没収した。議会軍によるアイルランド再占領は残忍を極め、そのためクロムウェルは現在でもアイルランドで嫌われている<ref>"Of all these doings in Cromwell's Irish Chapter, each of us may say what he will. Yet to everyone it will at least be intelligible how his name came to be hated in the tenacious heart of Ireland". John Morley, Biography of Oliver Cromwell. Page 298. 1900 and 2001. ISBN 978-1421267074.; "Cromwell is still a hate figure in Ireland today because of the brutal effectiveness of his campaigns in Ireland. Of course, his victories in Ireland made him a hero in Protestant England." [http://www.learningcurve.gov.uk/civilwar/g5/cs2/s4/] British National Archives web site. Accessed March 2007; [http://www.british-civil-wars.co.uk/military/1649-52-cromwell-ireland.htm] From a history site dedicated to the English Civil War. "...&nbsp;making Cromwell's name into one of the most hated in Irish history". Accessed March 2007. Site currently offline. WayBack Machine holds archive here [http://web.archive.org/web/20041211163740/http://www.british-civil-wars.co.uk/military/1649-52-cromwell-ireland.htm]</ref>。この悪行に対するクロムウェル (彼は最初の1年においては直接指揮をとっていた) の責任の範囲は、今日においても激しい議論の対象である。近年になって何人かの歴史家はクロムウェルによって行われたとされる行為の多くは、当時の戦争のルールでは許容されていたものであったか、もしくは扇動者によって誇張もしくはゆがめられたものであると主張した<ref>たとえば Philip McKeiver, 2007年, ''A New History of Cromwell's Irish Campaign'' ISBN 978-0-9554663-0-4 や Tom Reilly, 1999年, ''Cromwell: An Honourable Enemy'' ISBN 0-86322-250-1</ref>。が、これらの主張は他の歴史家からは疑問を呈されている<ref>[[ヒストリー・アイルランド]] ([[:en:History Ireland|History Ireland]]。アイルランドの歴史に関するマガジン) の"Cromwell: An Honourable Enemy" [http://www.historyireland.com/resources/reviews/review1.html History Ireland]参照。</ref>。議会派によるこれら行為の結果、アイルランド人口の15から25%程度が殺害もしくは亡命したと一般的には見積もられているが<ref>Padraig Lenihan, Confederate Catholics at War, p112</ref>、50%以上もの人口減少を起こしたと主張する少数派もいる<ref>The History and Social Influence of the Potato, Redcliffe N. Salaman, Edited by JG Hawkes, 9780521316231, Cambridge University Press</ref>。
 
== 背景 ==
 
[[イングランド内戦]]の勝者であるイングランド議会が1649年にアイルランドへ派兵した理由はいくつかある。
*1649年に[[アイルランド・カトリック同盟]]と[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]] (処刑された[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の息子) およびイングランド国王派が同盟を結んだこと。このためアイルランドには国王派の部隊が派遣され、カトリック同盟の部隊がオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]] ([[:en:James Butler, 1st Duke of Ormonde|James Butler, 1st Duke of Ormonde]]) の指揮下におかれたこと。この狙いはイングランドに侵攻し君主制を復活されることあり、これは新生[[イングランド共和国]]にとって無視することのできない脅威であった。
*仮にカトリック同盟が国王派と同盟を結ばなかったとしても、イングランド議会派がアイルランドの再占領を行った可能性は十分あり得る。彼らは三王国戦争のさなかにも議会軍をアイルランドに派兵していた (最大のものは1647年の[[マイケル・ジョーンズ (軍人)|マイケル・ジョーンズ]] ([[:en:Michael Jones (soldier)|Michael Jones]]) によ率い1647年のもの)。彼らはアイルランドを、[[イングランド王国]]の一部として正当な統治下にあり、1641年のアイルランド反乱以来一時的に支配から外れている存在として見ていた。
*加えて、議会派議員の多くが、1641年反乱の際に起きたイングランド人プロテスタント移民に対する残虐行為を罰したいと望んでいたこと
*アイルランドのいくつかの都市 (とくに[[ウェックスフォード]] ([[:en:Wexford|Wexford]]) と[[ウォーターフォード]] ([[:en:Waterford|Waterford]]) は1640年代にイングランド船を襲った[[私掠船]]の基地であったこと<ref>O'Siochru, God's Executioner, p.69 &96</ref>。
*議会派は内戦中の1642年以降[[探検家法]] ([[:en:Adventurers Act|Adventurers Act]]) によって1000万ポンドの借款を集めたが、債権者にはアイルランド・カトリック反乱軍から没収した土地でそれを補償するとしていた。債権者に補償を行うには、アイルランドを侵略してその土地を没収する必要があった。
*クロムウェルやその軍隊の多くは[[ピューリタン]]で、彼らからすればローマカトリックは[[異端]]であった。そのため彼らからすればこの侵略は[[十字軍]]であった。
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== ラスマインズの戦いとクロムウェルのアイルランド上陸 ==
{{main|ラスマインズの戦い|:en:Battle of Rathmines}}
カトリック連合同盟の末期である1649年には議会派の拠点は[[ダブリン]]に残されているだけであり、[[マイケル・ジョーンズ (軍人)|マイケル・ジョーンズ]]大佐が指揮をしていた。都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにジェームズ・バトラー (オーモンド公) 指揮下の国王派とカトリック同盟の連合軍は、都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにダブリンの南に位置する[[ラスマインズ]] ([[:en:Rathmines|Rathmines]]) に集結した。しかし国王派が展開中の8月2日、ジョーンズは[[ラスマインズの戦い|奇襲を仕掛け]]これを敗走させた。ジョーンズは4000人の国王派およびカトリック同盟兵士を殺害し、加えて2517人を捕虜としたと主張し<ref>McKeiver, A New History of Cromwell's Irish Campaign, page.59</ref>オリヴァー・クロムウェルはこの戦いを「驚くべき幸運、すばらしい、格好のタイミングで私たちにとって夢のようである。」と評した<ref>Antonia Fraser, Cromwell, our Chief of Men (1973), p. 324</ref>。アイルランドの首都を維持できたこと、そして自分たちが安全に上陸可能な港を確保できたことを意味していたからである。[[キンセール]] ([[:en:Kinsale|Kinsale]]) において[[ロバート・ブレイク]]提督がプリンス・[[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]率いる国王派艦隊の生き残りを封じ込めている間、クロムウェルは兵士と武装を満載した35隻の船で8月15日に上陸した。2日後には[[ヘンリー・アイアトン]]がさらに77隻の船で上陸している<ref>Fraser, Cromwell our Chief of Men, p.326</ref>。
 
オーモンド公の軍隊は混乱の中ダブリン周辺から撤退した。ラスマインズでの予想外の敗北で彼らは意気消沈しており、短期間のうちに再度会戦することはできなかった。その結果オーモンド公は、アイルランド東海岸の城塞都市を保持してクロムウェルの進軍を冬まで引き付けることを望み、「ハングリー大佐とシック少佐 <ref>原文ではColonel Hunger and Major Sickness</ref>(つまり飢餓と病)」が彼らを暫減させることを望んだ願った<ref>Padraig Lenihan, Confederate Catholics at War, p.113</ref>。
 
== ドロヘダ攻城戦 ==
 
{{main|ドロヘダ攻城戦|:en:Siege of Drogheda}}
上陸するや、クロムウェルはアイルランド東岸の他の都市を落とすために侵攻を開始した。増補とイングランドからの物流を能率的にする運ぶためある。最初に陥落したのはダブリンの北50kmほどにある都市[[ドロヘダ]]であった。ドロヘダには[[アーサー・アーストン (イングランド将校)|アーサー・アーストン]] ([[:en:Arthur Aston (army officer)|Arthur Aston]]) 率いる国王派、カトリック同盟兵の連合軍3000人が駐留していた。クロムウェル軍が都市を攻略した際、クロムウェルの命令によって大部分の駐留兵とカトリック聖職者たちは大虐殺を受けた。多くの市民も略奪の際に犠牲になり、アーサー・アーストンは[[ラウンドヘッド]] ([[:en:Roundhead|Roundhead]]。議会派清教徒のこと) らに、自身の木製義足で殴り殺された<ref>Fraser, pp.336-339. Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p. 98</ref>。駐留軍とドロヘダ市民 (これには町の教会に避難していた1000人を含んでいた) への虐殺はアイルランドにおいて恐怖として受け取られ、今日においてもクロムウェルの過剰な残忍性をすものとして記憶されている<ref>O Siochru, ''God's Executioner'', pp. 82-91. Faber & Faber (2008)</ref>。しかし近年では、ドロヘダの虐殺は17世紀当時の[[攻城戦]]の標準的なそれと比べて異常に厳しいものではなかったという主張もある (たとえばトム・ライリーの''Cromwell, an Honourable Enemy'', Dingle 1999)。ドロヘダを抜いたのち、1642年に上陸したスコットランドの[[国民盟約]]軍の生き残りから東部[[アルスター]]を奪取するために、クロムウェルは[[ロバート・ヴェナブルス]] ([[:en:Robert Venables|Robert Venables]]) が指揮する5000人を差し向けた。彼らはスコットランド軍を[[リスナガーヴェイの戦い]] ([[:en:battle of Lisnagarvey|battle of Lisnagarvey]]) で破り、この地域の議会派軍と合流した。この軍は西アルスター[[ロンドンデリー|デリー]]周辺のイングランド人移民が元になっている議会派軍と合流した。こ軍はで、マウントラス伯[[チャールズ・クート (初代マウントラス伯)|チャールズ・クート]] ([[:en:Charles Coote, 1st Earl of Mountrath|Charles Coote, 1st Earl of Mountrath]])が率いていたものである
 
==ウェックスフォード、ウォーターフォード、そしてダンカノン==
[[Image:kilkenny castle.jpg|250px|thumb|キルケニー城。カトリック同盟の首都であったキルケニーは1650年に陥落した。]]
{{main|ウェックスフォードの略奪|ウォーターフォード包囲戦|:en:Sack of Wexford|:en:Siege of Waterford}}
ニューモデル軍はウェックスフォード、ウォーターフォード、そして[[ダンカノン]] ([[:en:Duncannon|Duncannon]]) の港を確保するために進軍した。ウェックスフォードはもう一つの[[ウェックスフォードの略奪|いまわしい残虐行為]]があった都市である。降伏交渉が進行している最中に議会軍は町に侵入して略奪をはたらき、2000人の兵士と1500人の市民を殺害、町の多くを焼き払った<ref>Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p100</ref>。ウェックスフォードの略奪におけるクロムウェルの責任については意見が分かれている。彼は町への攻撃を命じておらず、軍が町に突入した時は降伏を協議している時であった。一方でクロムウェルを批判する人は、彼が軍をる努力をほぼしておらず、また事後にも罰をほとんど与えなかった点を指摘している。
 
おそらく、ウェックスフォードの略奪は議会派にとってはややマイナスであったと考えられる。町を破壊することは議会派がその港を使用できなくなることを意味しており、アイルランドに軍隊を派遣するための基地にできないということであった。第2に、ドロヘダとウェックスフォードにおける厳しい処置の結果はいっしょくたにされていた。また、将来的な抵抗を阻むという点ではある程度効果的であったかもしれない。国王派の指揮官であるオーモンド公は、クロムウェル軍の恐ろしさによって軍が麻痺させられていると考えていた。その後、[[ニュー・ロス]] ([[:en:New Ross|New Ross]])、[[カーロー]] ([[:en:Carlow|Carlow]]) や[[キルケニー]]市といった町や都市はクロムウェル軍によって包囲されると、協議に従って降伏している。一方で、ドロヘダやウェックスフォードの守備に対する大虐殺は、たとえ降伏しても殺されるとアイルランド人カトリック教徒に信じ込ませてしまったため、他の場所での抵抗を長引かせることになった。ウォーターフォード、ダンカノン、[[クロンメル]] ([[:en:Clonmel|Clonmel]])や、[[リムリック]]そして[[ゴールウェイ]]といった都市は断固とした抵抗の後降伏した。クロムウェルはウォーターフォードもダンカノンも抜くことができなかったため、ニューモデル軍は冬期用の営舎へ退かねばならなず、そこでは兵士に多数の病死者 (おもに[[腸チフス]]と[[赤痢]]) が出た 。結局、ウォーターフォードとダンカノンは長い包囲戦の末1650年に降伏した。
 
==クロンメルとマンスター侵略==
{{main|クロンメル攻城戦|:en:Siege of Clonmel}}
[[Image:Henry Ireton2.jpg|right|thumb|ヘンリー・アイアトン。クロムウェルは1950年にアイルランドにおける議会軍の指揮権を彼に渡した。のち1651年のリムリック包囲戦中に病没。]]
春が来ると、クロムウェルは残っていたアイルランド南東部の城塞都市を掃討した (カトリック同盟の首都であったキルケニーが交渉に従って降伏したことが特筆される)。ニューモデル軍は[[クロンメル攻城戦]]において城壁を攻撃した際に撃退され最大2000人もの死傷者を出し、この侵略で唯一となる手痛いしっぺ返しを受けた。それにもかかわらず町は翌日に降伏している。キルケニーやクロンメルにおける彼のふるまいはドロヘダやウェックスフォードでのそれと対比されるかもしれない。クロムウェルの軍は先述の2つの都市で大きな損害を受けていたにもかかわらず彼は、市民の生命と財産の保証さらにはそれを守っていた (武装を解除していない) アイルランド軍兵士の退避が盛り込まれている降伏条約を、彼は尊重した。議会派の司令官側のこのような姿勢の変化は、過度の虐殺がアイルランドの抵抗を長引かせていたことを認めていたためかもしれない。一方で、ドロヘダとウェックスフォードでは降伏合意は成立しておらず、17世紀中期のヨーロッパ本土での一般的な攻城戦ルールからすれば、このような場合は慈悲は与えられなかった。この点をもってクロムウェルの姿勢は変わっていなかったと主張することもできる。
 
オーモンド公率いる国王派はいまだに[[マンスター]]地方の大部分を保持していたが、[[コーク (アイルランド)|コーク]]に位置する味方の要塞で反乱が起きて裏をかかれることになった。反乱を起こしたブリテン島のプロテスタント軍で、1648年までは議会派として戦っており、カトリック連合同盟と共に闘うことには腸が煮え繰り返る思いであった。反乱軍はコークとマンスターの大部分をクロムウェルに引き渡し、さらに在郷のアイルランド人駐留軍を[[マックルームの戦い]] ([[:en:battle of Macroom|battle of Macroom]]) で打ち破った。アイルランド軍と国王派軍は[[シャノン川]]を超えて[[コノート]]地方に撤退し、またマンスターにとどまった軍は[[ケリー州]]の要塞に撤退した。
 
==国王派連合の崩壊==
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==Scarrifholisとアルスター軍の崩壊==
{{main|Battle of Scarrifholis}}
残されたアイルランド人と国王派の中でもっとも強大なものは6,000人を擁する[[アルスター]]の軍団で、これは1649年に死亡した[[オーウェン・ロー・オニール]] ([[:en:Owen Roe O'Neill|Owen Roe O'Neill]]) が以前率いていたものであった。しかしながらこの軍団はこのとき当時、[[ヒーバー・マクマホン]] ([[:en:Heber MacMahon|Heber MacMahon]]) という経験未熟なカトリック司教が率いていた。アルスター軍は1650年6月に[[ドニゴール]] ([[:en:Donegal|Donegal]]) で、おもに英国移民で構成される議会派軍およびチャールズ・クート率いる軍と激突した (Scarrifholisの戦い)。アルスター軍は総崩れとなり、2,000人もの戦死者を出し<ref>McKeiver,A New History of Cromwell's Irish Campaign p.167</ref>加えてマクマホンや大部分のアルスター軍指揮官が戦死もしくはとらえられ処刑された。最後の強大な反議会派野戦部隊が敗退したことにより、議会派はアルスターの北部を確保した。クートの軍は北部におけるカトリック勢力最後の拠点[[チャールモント攻城戦|チャールモントにおける攻城戦]] ([[:en:Siege of Charlemont|Siege of Charlemont]]) で大きな損害を受けたにもかかわらず、アイルランド南部および西海岸になだれ込むことができた。
 
==リムリックとゴールウェイの包囲==
{{main|リムリック包囲戦 (1650年)|ゴールウェイ包囲戦|:en:Siege of Limerick (1650-51)|:en:Siege of Galway}}
[[Image:John Castle Limerick-seabhcan.jpg|thumb|リムリックの[[キングジョンズ・カッスル]] ([[:en:King John's Castle (Limerick)|King John's Castle]]) とソーモンド・ブリッジ。アイアトンは長い包囲の末1651年にリムリックを落とした。]]
1650年10月、議会派はシャノン川を越えてコノートの西部に入った。クランリカード候[[ユーリク・バーク (初代クランリカード候)|ユーリク・バーク]] ([[:en:Ulick Burke, 1st Marquess of Clanricarde|Ulick Burke, 1st Marquess of Clanricarde]]) 率いる軍はこれを食い止めようとしたが[[ミーリック島の戦い]]([[:en:battle of Meelick Island|battle of Meelick Island]]) で奇襲を受け敗北した。オーモンド公は負け戦が続いたためにアイルランド人と国王派からの信頼を失い、もはや彼が指揮していた軍、特にカトリック同盟からは完全に信用を失っていた。オーモンド公は1650年12月にフランスに逃れ、彼の代わりにアイルランド人貴族であるクランリカード候が指揮官になった。アイルランド人と国王派の連合軍はシャノン川の西岸に追い詰められ、強固な城塞で守られたアイルランド西岸の都市[[リムリック]]と[[ゴールウェイ]]を守りきることに最後の望みをかけた。これらの都市は強固な近代的防御力を誇り、ドロヘダやウェックスフォードのような直接攻撃では落とすことはできなかった。アイアトンがリムリックを包囲する一方でチャールズ・クートはゴールウェイを囲んだが、堅固な防御で固められた都市を落とすことができず、代わりに兵糧攻めを行い飢えと病気で降伏せざるを得なくしようとした。ケリーからのアイルランド軍は南からリムリックを救援しようとしたが、Knocknaclashyの戦いで迎撃され敗北した ([[:en:battle of Knocknaclashy|battle of Knocknaclashy]])。結果リムリックは1651年に、ゴールウェイも翌年に陥落した。しかし病は無差別に、そして何千もの議会派軍を殺し、アイアトンも疫病で1651年にリムリックの外にて陣没した<ref>Micheal O Siochru, God's Executioner, Oliver Cromwell and Conquest of Ireland, p.187</ref>。
 
==ゲリラ戦と飢餓と疫病==
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ゲリラ戦への移行は1650年後半から始まっており、1651年にアイルランド人と国王派の連合軍が敗北したにもかかわらず、議会派に対抗する兵士はまだ30,000人ほどいると推測された。トーリー (Tories。アイルランド語の単語tóraidheから「ならず者」の意) は[[アレン湿地帯]] ([[:en:Bog of Allen|Bog of Allen]]) や[[ウィックロー山地]] ([[:en:Wicklow Mountains|Wicklow Mountains]])、そして[[ドラムリン]] ([[:en:Drumlin|Drumlin]]) といった移動の難所から数か月内で活動し、議会派は大規模行軍を除いては極めて危険な状態になった。アイアトンは1650年にトーリーを鎮圧するためウィックロー山地へ[[征討]]を行うが、成功しなかった。
 
1651年前半には、イングランドの輜重隊は軍事拠点から2マイル以上行軍する場合安全ではなかったと報告された。それにこたえて、議会派軍はトーリーを支援していると考えられた一般人を強制的に追い立て、食糧供給を破壊した。[[ジョン・ヒューソン (レジサイド)|ジョン・ヒューソン]] ([[:en:John Hewson (regicide)|John Hewson]]) は[[ウィックロー州]]と[[キルデア州]]で組織的に食糧備蓄を破壊し、[[ハードレス・ウォーラー]] ([[:en:Hardress Waller|Hardress Waller]]) も[[クレア州]]のバレン (Burren) で同様に、クック大佐も[[ウェックスフォード州]]で同じことを行った。その結果、アイルランドのあちこちで[[飢饉]]が発生、さらに[[腺ペスト]]の流行が状況をさらに悪化させた<ref>Lenihan, p.122</ref>。ゲリラ戦が長く続いたため、議会派は1651年4月付でウィックロー州や多くの南部州を今の言葉でいう[[無差別砲撃地帯]] ([[:en:Free fire zone|free-fire zone]]) とし、見つけたら誰でも「敵として殺害、滅ぼし、さらに彼らの家畜や資産は敵の持ち物として取るか奪うかすべし (taken slain and destroyed as enemies and their cattle and good shall be taken or spoiled as the goods of enemies) 」とした<ref>James Scott Wheeler, Cromwell in Ireland</ref>。この戦術は1603年に終結した[[9年戦争 (アイルランド)|9年戦争]] ([[:en:Nine Years' War (Ireland)|Nine Years' War]]) でも効果的であった。加えて捕虜を[[年季奉公]]人として[[西インド諸島]] (特に[[バルバドス]]など。バルバドスではその子孫は[[レッドレッグ]] ([[:en:Redlegs|Redlegs]]) と呼ばれた) に売り払うことも始まり、イングランド共和体制のもと合計12,000人が奴隷として売り払われた<ref>Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p134</ref> 。
 
戦争のこの時期は一般市民の犠牲が大きく、戦争、飢饉、そして疫病の組み合わせはアイルランドの住民に莫大な死者を出した。[[ウィリアム・ペティ]]は1641年以来のアイルランドにおける犠牲者数を618,000人以上、もしくは戦前の人口の40%と見積もった ([[ダウン・サーヴェイ]] ([[:en:Down Survey|Down Survey]]) より)。このうち400,000人はカトリック教徒で、167,000人は戦争や飢餓で直接的に殺され、残りは戦争に関連する疫病で死亡したと見積もった<ref>Kenyon & Ohlmeyer The Civil Wars, p.278. Scott Wheeler, Cromwell in Ireland</ref>。
 
結局、ゲリラ戦は議会派が1652年に降伏条約を発表すると終結した。これはアイルランド軍が、イングランド共和国との戦争で戦わないという条件付きで、外国へ渡り軍に加わることを許可したものであり、ほとんどはフランスもしくはスペインに渡った。ジョン・フィッツパトリック (John Fitzpatrick。ラインスター)、エドマンド・オドワイアー (Edmund O'Dwyer。マンスター)、エドマンド・デイリー (Edmund Daly。コノート) といった最大規模のアイルランドゲリラ軍はその年の5月にキルケニーで調印された条約により降伏した。しかしその年の終わりにも、まだ11,000人ほどがまだ地域 (大部分はアルスター) がまだ地域に存在していると考えられていた。最後のアイルランドと国王派の連合軍 (フィリップ・オライリーに率いられていたアルスターのカトリック連合の生き残り) は1653年4月27日、[[キャバン州]]Cloughoughterにおいて正式に降伏した。しかし、小規模のゲリラ戦はその後10年あまり続き、広範囲に無法地帯が広がりと強盗団がはびこることになった。トーリーの一部がただの強盗団 ([[アウトロー]]) であったことは疑いがないが、一方でそのほかのそれは政治的な動機があった。クロムウェルたちは、彼らの情報もしくは捕縛の報酬について、「私的なトーリー (private tories)」と「公的なトーリー (public tories)」とにわけていた{{要出典|date=2008年12月}}。
 
==クロムウェルによる土地資産処分==