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|casualties2 = 不明<br/>戦車357両
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'''カメネツ=ポドリスキー包囲戦'''(別名、Hube's Pocket)とは、[[第二次世界大戦]][[独ソ戦|東部戦線]]において[[赤軍]]の包囲を避ける[[ドイツ国防軍]]に対して[[赤軍]]が行った包囲のことである。プロスクーロフ(Proskurov)・チェルノフツィ(Chernovtsy)攻略解放作戦(1944([[1944]][[3月4日-4]]~[[4月17日]])、[[ウーマニ]]・ボトシャニ(Botosani)攻略解放作戦(1944年[[3月5日-4]]~4月17日)が行われを通しいる間、ソビエト第1、第2ウクライナ[[戦線#ソビエト軍での用法|方面軍集団]]は[[ドニエストル川]]北方に展開していたドイツ[[第1装甲軍]](司令官[[ハンス=ヴァレンティーン・フーベ]])を包囲した。第1装甲軍は脱出に成功するも、[[軍用車両|車両]]、[[野戦砲|火器砲]]などの大型装備の殆どを失ったが、将兵たちは4月、包囲から脱出に成功した。
 
==攻勢開始==
1944年[[2月]]中旬、ドイツ第1装甲軍は[[ウクライナ]]北西部で戦線を防衛にあたっていた。第1軍司令官はハンス=ヴァレンティーン・フーベ[[上級大将]]。3個装甲軍団、すなわょうど約20個[[装甲師団]]、もしくは[[装甲擲団兵師団]]より構成され、補助部隊を含めると総兵力200,000名以上、[[南方軍集団]](司令官[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]])の中でも最も強力な部隊であった。しかしこの時期においては、[[コルスン包囲戦]]<ref>situation map, 1 March 1944, p332, Glantz</ref>で包囲されていたドイツ2個軍の救出活動を終了したところであり、配下の特に第III装甲[[軍団]]は戦力を著しく消耗していた。
 
これと睨み合うソビエト赤軍第1ウクライナ方面軍集団を率いる[[ゲオルギー・ジューコフ]][[元帥]]は第1装甲軍の重要性を把握し、この部隊破、お滅することにび東部って独軍戦線の方面の翼を崩壊を目的にさせるべく攻撃作戦を立案した。ジューコフは複数の戦線において同時攻勢を計画し、それにジューコフ支配下の第1ウクライナ方面軍集団と[[イワン・コーネフ]][[元帥]]率いる第2ウクライナ方面軍集団は南方軍集団の戦線の南北両端で同時攻勢従事させることにした。開始、2個空軍を含む11個郡はフーベ部隊[[軍]]が第一装甲軍の側面を突き、いて包囲を試みて、[[スターリングラードの戦い]]の再現を行い、包囲の中のドイツ軍が全て降伏するまで包囲縮小す締め上げ計画なっていた。作戦はドイツ南方軍集団の戦線の南北両端で開始されるこなっていた。
1944年2月の時点で、第1装甲軍はハンス=ヴァレンティーン・フーベ[[上級大将]]が率いており、3個装甲軍団(合計で約20個装甲師団、もしくは装甲擲団兵師団が所属)が所属していた。また、付属部隊を含めると第1装甲軍には将兵200,000名以上が所属しており、[[南方軍集団]](司令官[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]])の中でも最も強力な部隊であった。
 
ソビエト赤軍の[[ゲオルギー・ジューコフ]]は第1装甲軍の重要性を把握し、この部隊の撃破、および東部戦線の東南方面の崩壊を目的に作戦を立案した。ジューコフは複数の戦線において同時攻勢を計画し、それにジューコフ支配下の第1ウクライナ方面軍と[[イワン・コーネフ]]率いる第2ウクライナ方面軍を従事させることにした。2個空軍を含む11個郡はフーベ部隊の側面を突き、包囲を試みて、[[スターリングラードの戦い]]の再現を行い、包囲の中のドイツ軍が全て降伏するまで包囲を縮小する計画となっていた。作戦はドイツ南方軍集団の戦線の南北両端で開始されることになっていた。
 
[[Image:OEF-map-8.jpg|thumb|250px|left|ソビエト赤軍の攻勢による包囲の形成。]]
 
マンシュタインは舞台の前面で線に渡って大規模な欺瞞を目的とした部隊移動が行われていることを知らされたが、ソ連軍は同時に大規模な[[欺瞞]]活動を行ったため、攻勢の正確な位置や日時は掴めなかった。また戦略的撤退をドイツ[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]が拒否し禁じていたことにより、第1装甲軍をソ連軍の戦線攻勢から救うためおける部隊展開について彼ができることはもはやほとんどなかった<ref>p334, Glantz</ref>。
 
3月初旬、ソビエト赤軍による攻撃はジューコフに直接指揮された第13ウクライナ方面軍集団(司令官[[ニコライ・ヴァトゥーチン]])によって開始され、第1ウクライナ方面軍の圧倒的な物量により、ドイツ第1装甲軍の部隊を[[ドニエストル川]]沿い到着するまでに南西方面へ撤退を余儀なくた。その後も赤軍は絶え間ない赤軍の攻撃にも関わらずを仕掛けたが、、ドイツ軍は3月末までこの地点で戦線を保持した。1944年3月、作戦上のソ連軍は新たに部隊交代によりさせソビエト1戦車軍、第3親衛戦車軍、第4戦車軍所属の5個戦車軍団が[[テルノーピリ]]東ドイツ第1装甲軍(司令官ハンス=ヴァレンティーン・フーベ)が防衛する戦線最北端を突破し、ズブルチ川([[:en:Zbruch River|en]])、セレト川([[:en:Seret River|en]])の間を南へ進撃した。ソビエト赤軍はドニエストル川を渡り、ドイツ第1装甲軍を側面から包囲するために、チェルノフチへさらに進撃、一方で、ドイツ軍防衛線にできた突破口の両側面に防衛線確立す固めために歩兵軍べく[[狙撃師]]が続いた。
 
==包囲==
フーベとマンシュタインは包囲の危険性を認識、ドニエストル防衛線の南側面と今回、北で行われたソビエト赤軍の攻撃で第1装甲軍は突出してしまっていた。フーベとマンシュタインは部隊が包囲の危険性を認識、包囲を避けるための撤退を要請したが、ヒトラーはこれを拒絶、「撤退禁止」命令に固執していたヒトラーはこれを拒絶。数日のうちに、ジューコフ、コーネフらが率いるソビエト赤軍はドニエストル川を横断し、ドイツ軍を全包囲できる位置にいた。1944年3月25日、ドニエストル川北岸の第1装甲軍橋頭堡から最後の連絡線は(Khotyn[[:en:Khotyn|en]])で寸断された<ref name="p.335, Glantz">p.335, Glantz</ref>。
 
この時点で第1装甲軍全体が[[カミャネチ=ポジリシキィ|カメネツ=ポリドスキー]]を中心として包囲されていた。包囲されたドイツ軍には2週間以上を戦うのに十分な[[食料]][[弾薬]]所持してい2週間分ほどあったが、車両用[[燃料は乏しかっ]]不足に悩まされていた。[[ドイツ空軍|空軍]]による補給[[空輸]]は大雪のために妨げられ、燃料補給は戦闘用車両のみによる補給が可能いう状況になった。その間、ソビエト赤軍の主要部隊、第2ウクライナ方面軍所属集団の第40軍が第一装甲軍の部を占拠側に進撃、<ref name="p.335, Glantz">p.335, Glantz</ref>、本格的な包囲運動とみたフーベはそれから逃れるため、ドニエストル戦線全ての部隊に南下を命令した。ジューコフはこのドイツ軍の南下を見て、フーベが全退却を行い、南へ脱出を企てていると判断した。ジューコフはこれを防ぐために包囲を行っていた部隊を引き抜いてまで包囲網の南へ移動させた。フーベがこれ以降南へ攻撃突破を行った時、ソビエト第2ウクライナ方面おうとする独増派された歩兵、砲兵からの赤軍部隊による激しい反撃を受けることになる
 
==包囲戦==
フーベは防衛部隊の密度を上げるために、戦線を整理して防衛範囲さくするよう命令した。ソビエト第1ウクライナ方面軍が包囲を完了する直前、フーベは[[陸軍総司令部]]に機動防衛戦を行いながら味方戦線へ[[機動]]し最終的に包囲網を脱出する権限を要請していた。しかし、包囲が完成するころには、状況が変化していた。天候が大雪となったため、戦力を維持するための必要物資が十分に輸送されないことを意味していた。しかしず、近隣のドイツ軍(南東の[[第8軍 (ドイツ軍)|第8軍]]、北西の[[第4装甲軍]])らは、第1装甲軍の全面救援活動を試み行えような戦力を保持していなかった。ジューコフは簡潔な[[降伏]]勧告を送付した。「降伏せよ、さもなくば包囲内の全てのドイツ将兵らが慈悲を見ることはないだろう。」
 
この包囲に対して、フーベは勧告をけり、あらためて包囲の部隊組織の再構築を命令した。4個装甲軍団は解散され、3個軍団集団に再編された。第XLVI装甲軍団司令官ハンス・ゴリック(Hans Gollick)[[歩兵]][[大将]]はゴリック軍団集団を、第III装甲軍団司令官ヘルマン・ブライト(Hermann Breith)装甲兵対象大将はブライト軍団集団、第LIX軍団司令官クルト・フォン・デア・シュヴァルリー[[将軍]](Kurt von der Chevallerie)はフォン・デア・シュヴァルリー軍団集団をそれぞれ編成した。
 
包囲内のドイツ軍が再編成を行っている間、マンシュタインは包囲内の部隊第一装甲軍突破を試み、それを外側の救援部隊と連携して包囲支援突破することの許可を得るためにヒトラーと議論を重ねていた。激しい議論の後、ヒトラーは譲歩して同意し、フーベに脱出の許可行うよう命令した。脱出方向作戦経路決定には困難が伴い、フーベは南方のドニエストル川を越え、[[ルーマニア]]へ向かうことを考えていた。しかしマンシュタインはルーマニアへ撤退ではされると前線への復帰にさらに長距離の撤退が行われるため、マンシュタインはこの撤退を行うと、彼が率いる軍集団が必要としていた装甲軍を失うことになると考えた。弱体化していたハンガリー第VII軍団はカメネツ=ポリドスキー包囲網西方の戦線に配置されていて、第1装甲軍が西に突破することにより、直ちに戦線に復帰することが可能であった。マンシュタインはフーベに、ハンガリー軍の支援を受けるためにもこの地域での突破を行うよう命令した。
 
第1装甲軍はテルノーピリへ突破を行い、そこで撤退支援を行っている第IISS装甲軍団(司令官パウル・ハウサー)と合流することになっていた。カメネツ=ポリドスキーからテルノポリまではいくつかの川、泥まみれの地域を通って、250Km(150マイル)以上の距離を進みまなければならなかった。これに合流するためには西側はフーベが最も強力な敵の抵抗線があると考えていた。フーベは部隊を2つに分けて西へ移動する準備を行った。