「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」の版間の差分

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1944年[[2月]]中旬、ドイツ第1装甲軍は[[ウクライナ]]北西部の防衛にあたっていた。軍司令官はハンス=ヴァレンティーン・フーベ[[上級大将]]。3個装甲軍団、すなわち約20個[[装甲師団]]、もしくは[[装甲擲団兵師団]]より構成され、補助部隊を含めると総兵力200,000名以上、[[南方軍集団]](司令官[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]])の中でも最も強力な部隊であった。しかしこの時期においては、[[コルスン包囲戦]]<ref>situation map, 1 March 1944, p332, Glantz</ref>で包囲されていたドイツ2個軍の救出活動を終了したところであり、特に第III装甲[[軍団]]は戦力を著しく消耗していた。
 
これと睨み合うソビエト赤軍第1ウクライナ方面軍集団を率いる[[ゲオルギー・ジューコフ]][[元帥]]は第1装甲軍の重要性を把握し、この部隊を撃滅することによって独軍戦線の南翼を崩壊させるべく攻撃作戦を立案した。、それにジューコフ支配下直率の第1ウクライナ方面軍集団と[[イワン・コーネフ]][[元帥]]率いる第2ウクライナ方面軍集団は南方軍集団の戦線の南北両端で同時攻勢を開始、2個航空軍を含む11個[[軍]]が第一装甲軍の側面を突いて包囲、[[スターリングラードの戦い]]の再現を行い、ドイツ軍が全て降伏するまで包囲網を締め上げることとなった。
 
[[Image:OEF-map-8.jpg|thumb|250px|left|ソビエト赤軍の攻勢による包囲の形成。]]
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==脱出完了==
大雪、少ない補給、そして一度は完全包囲されたにも関わらず、第1装甲軍は滞りなく突破作戦を遂行できた。[[ソ芬戦争]]で多くのソ連軍部隊を壊滅させた[[モッティ戦術]]の罠に独軍が引っかかることは無かったのだ。脱走者もほとんど出ず、部隊は絶えず集団で移動を続け、規律も維持された。これはスターリングラードの戦い、コルスン包囲戦での混乱した状況とは大違いであった。[[4月5日]]までに南北両部隊の前衛はストリパ川(Strypa River)へ到着、ブチャチ(Buczacz)の近郊で[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]の部隊と合流、さらに[[パウル・ハウサー]]率いる[[武SS第II甲軍団の前隊]]の偵察部隊とも合流した。2週間以上の激戦、悪天候、そして補給品の欠如という状況にも関わらず、第1装甲軍は損失を最小限に抑えつつ、完全包囲そして降伏または殲滅をどうにかして逃れた。第1装甲軍は再び戦線に戻され、ドニエストルとブロディの町の間に落ち着いた。<!--2週間の脱出間に、第1装甲軍はソビエト赤軍への反撃で、多大な人的損害を負わせ、さらに[[戦車]]357両、[[突撃砲]]42両、火砲280門を撃破した。-->マンシュタインの敏速な思考とフーベの作戦計画、能力により、将兵200,000名がスターリングラードの再現を免れた。しかしフーベ第一装甲軍は組織として部隊規律を保ち残していたが装備と言えるのは個人携行可能な軽火器を所持してぐらなもの、それ以上の大型装備はほとんど放棄され例えば装甲車両は45しか脱出でき残っていなかった。このため脱出の成功と将兵の損失の少なさにも関わらず、第1装甲軍は大規模な攻撃が機械化部隊としての行動は不可能となり、完全な再編成を必要としていた。
 
カメネツ・ポリドスキー包囲戦は、部隊が包囲されたとき、全滅を如何にして避けるかという例題として今日、各国の[[陸軍]][[士官学校]]で研究されている。