「クリストフォルス (対立教皇)」の版間の差分

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'''クリストフォルス'''(Christopher)(Christophorus, 生没年不詳)は、[[903年]]10月から[[904年]]1月まで[[教皇|ローマ教皇]]位にいた人物である。20世紀前半までの近代の多くの教皇のリストでは正当な教皇であるとされているが、彼は[[教会法]]に従わない方法で教皇位を得たと考えられるようになり、教皇の準公式な一覧である''Annuario Pontificio''『[[教皇年鑑]]』(''Annuario Pontificio'')からは除外された。現在では、[[カトリック教会]]では[[対立教皇]]であったと考えられている。
 
==人生と統治==
クリストフォルスの人生については、信頼できる一貫した情報源がなく、ほとんどかっていない。ローマ出身で、父の名前はレオであったと信じられている。教皇になった時は、[[ダマスス1世 (ローマ教皇)|聖ダマスス]]という名前の枢機卿であった。前任の[[レオ5世 (ローマ教皇)|レオ5世]]は、903年10月頃に廃位し、投獄された。レオ5世は獄死し、クリストフォルスはその後で教皇になったと考えられている。しかし、ナポリのAuxiliusは、教皇[[セルギウス3世 (ローマ教皇)|セルギウス3世]]がレオ5世とクリストフォルスを殺害したと記している。11世紀のギリシアの文書では<ref>Mon. Graca ad Photium pertinent., p. 160, ed. Hergenrother, Ratisbon, 1869.</ref>、クリストフォルスは[[聖霊]]が"父[[フィリオクェ問題|と子]]"から生じると述べた最初の教皇であるとしている。しかしその文書は、クリストフォルスはこの告白をコンスタンディヌーポリ総主教のセルギウスに語ったと書かれているが、当時は[[ニコラオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ニコラオス1世]]がコンスタンディヌーポリ総主教の座にあった。
 
==失脚==
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==正統性==
教皇位についた経緯にかかわらず、クリストフォルスを正統な教皇と認める者もいる。彼の名前は20世紀初頭までの主要な教皇一覧の多くに掲載されていた<ref>Liber Pontificalis, II, ed. Duchesne; Watterich, Pontificum Romanorum Vitae, I; and Origines de l'Eglise romaine, I, par les membres de la communaute de Solesmes, Paris, 1836.</ref>彼のポートレートやフレスコ画は他の教皇と並んでローマの[[サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]やピサ郊外の[[サン・ピエロ・ア・グラード聖堂]]に飾られている。さらに彼は、後継者達によっても認知されている。例えば、フランスの[[コルビー修道院]]の特権を認めるに当たって、[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]がベネディクトとクリストフォルスの先立つ許諾について言及している<ref>Philipp Jaffe, ''Regesta RR. Pont.'', I, n. 4212.</ref>。この特権は、クリストフォルスの事績で現在も残っている唯一のものである<ref>ibid., 3532, 2d ed.</ref>。しかし、20世紀以降、彼は正統な教皇とは認められなくなり、教皇年鑑収録の[[ローマ教皇の一覧]]からも名前が消去されることとなった。
 
==出典==