「大樋焼」の版間の差分
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その後大樋家は代々藩の御用を務め、2代長左衛門(初代の長男)、3代勘兵衛(2代の次男)、4代勘兵衛(3代の三男)、5代勘兵衛(4代の長男)、6代朔太郎(5代の長男)、7代道忠(5五代の四男)と、[[明治]]27年10月に没した大樋道忠まで初代大樋長左衛門の直系の子孫からその門人により藩主の御用窯として大樋焼の制作が続けられた。
[[明治維新]]により藩の保護を失った7代大樋道忠は明治2年(1869年)制作を中断。明治17年(1884年)に再開するが、その子は家業に従事せず他に転じたため初代大樋長左衛門の直系の子孫による大樋焼の制作は、明治27年10月に没した7代大樋道忠を最後に途絶えた
大樋焼の制作活動は明治維新後、藩の御庭焼から民間の窯元として[[生業]]を立てざるを得なくなったことや、当時の[[茶道]]の衰退と重なって苦難の時期を迎えたが、その後、門人達及びその子孫の制作活動の結果、飴色の釉の特色ある焼物として全国的に知られるようになる。
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