削除された内容 追加された内容
→‎重要文化財: 2010年指定品を追加
Hicastle1 (会話 | 投稿記録)
30行目:
[[関ヶ原の戦い]]から敗走したのちに[[答志島]](現・鳥羽市)で自刃した[[九鬼嘉隆]]のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い金剛證寺に出家し、金剛證寺第12世となった。
 
[[江戸時代]]には[[徳川幕府]]が伊勢神宮と絡んで重視し、援助した。[[1609年]]([[慶長]]14年)には[[備前播磨国]][[岡山姫路城]]主であった[[池田輝政]]が火災で失われた[[本堂]]摩尼殿(まにでん)を再建した。この本堂は[[1701年]]([[元禄]]14年)に[[徳川綱吉]]の母[[桂昌院]]による修復を経て現存し、[[重要文化財]]に指定されている。
 
[[1925年]]([[大正]]14年)に[[ケーブルカー]]が開通、[[昭和]]になってからは内宮前から登山バスが運行されるなどで朝熊山へ登る人が激増したが、[[第二次世界大戦]]中の[[1944年]](昭和19年)ケーブルカーの線路が軍用のため[[金属類回収令|金属供出]]により徴収され廃線となり、一般の朝熊山への入山が禁止され金剛證寺は衰退した。[[戦後]]には[[伊勢湾台風]]などで被害を受けるなど衰退の一途をたどった。[[1964年]](昭和39年)の[[伊勢志摩スカイライン]]開通後には参拝客も再び急増し、[[1979年]](昭和54年)に[[仁王]]門が再建されるなど、往時の賑わいを超えるまでに復興した。路線バスは2008年現在廃止されているので注意。