「シリア・セルジューク朝」の版間の差分

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十字軍に抵抗せずひたすら屈従していたドゥカークは、領土であるゴラン高原の農村を十字軍に荒らされたと聞き、エルサレムを拠点に動いていた[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]と[[タンクレード (ガリラヤ公)|タンクレード]]の行軍を攻撃し敗走させるが、逆に彼らによるダマスカス近郊の略奪と破壊という報復を受け、ドゥカークは民衆や部下に見捨てられ始めた。しかし[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]の急死と、[[ボエモン1世 (アンティオキア公)|ボエモン]]が小アジアでセルジューク系の王[[ダニシュメンド]]に敗北し捕虜となった知らせを聞き、名誉回復のため自分も十字軍の諸侯を討とうとゴドフロワにかわりエルサレムに入る彼の弟[[エデッサ伯国|エデッサ]]伯ボードワンの行路を待ち伏せする決意をする。ところが、十字軍に対すると同じくらいドゥカークによる専横と略奪を恐れていた豊かな港町[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]のカーディー(法治官)ファクル・アル・ムルクは、ボードワンをひそかに迎え、なおかつ待ち伏せされている事を教えたため、ドゥカークは作戦に失敗し退却、ボードワンは無事エルサレムに入り「エルサレム王[[ボードゥアン1世 (エルサレム王)|ボードワン1世]]」を名乗ることができ、「[[エルサレム王国]]」の誕生を許してしまう。
 
[[1102年]]、今度は[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]が攻撃を受ける。相手は[[トゥールーズ]]伯[[レーモン4世 (トゥールーズ伯)|レーモン4世]](レーモン・ド・サン・ジル)で、「[[1101年の十字軍]]」を率いて小アジアに攻め込んだが[[クルチ・アルスラーン1世]]らの攻撃で壊滅し、シリアに着いたときはわずか数百騎の兵力だった。領主ファクル・アル・ムルクと救援に来たドゥカークの軍勢は数では圧倒的に有利だったが、ドゥカークの軍は十字軍を見ただけで退却して逃げてしまう。以前待ち伏せを密告されたことの仕返しだったのだろう。こうしてトリポリ軍は大敗し、十字軍の強力な拠点となるトリポリ郊外の城をレーモン・ド・サン・ジルが掌握することとなった。(この城が後の十字軍国家[[トリポリ伯国]]の母体となり、やがてトリポリ政権を滅ぼしトリポリに本拠を移す。)
 
ドゥカークは[[1104年]]に早世してしまった。かわってトゥグ・テギーンはドゥカークの子で1歳ほどのトゥトゥシュ2世、ついでドゥカークの弟のエルタシュを相次いで立ててその[[アタベク]]となるが、エルタシュはトゥグ・テギーンの権勢を怖れてダマスカスから逃亡した。その結果、トゥグ・テギーンが支配権を受け継ぐこととなりアタベク政権[[ブーリー朝]]が誕生し、ダマスカスのセルジューク政権は断絶した。