削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Hinonbey (会話 | 投稿記録)
加筆
1行目:
{{Otheruses|戦前の日本に存在した雑誌|かつて青鞜の略称をもっていた、日本のプロ野球チーム|北海道日本ハムファイターズ}}
{{文学}}
'''青鞜'''(せいとう)は、[[青鞜社]]の[[機関紙|機関誌]]。[[1911年]]([[明治]]44年)9月から [[1916年]]([[大正]]5年)2月にかけてまで52冊発行された、女性による月刊誌。主に[[平塚らいてう]]が、末期だけ[[伊藤野枝]]が中心だった。『文学史的はさほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きい』との論もあ<ref>高田瑞穂:『青鞜』(新潮日本文学辞典(1988)中の一項</ref>
 
==概説 経緯 ==
明治末の[[日本]]では、良妻賢母が女性の道だった。選挙権はなかった。[[治安警察法]]は女性の政治活動を禁じていた。欧米では[[フェミニズム]]が叫ばれ、それが日本にも伝えられていた。
当時の家父長制度から女性を解放するという思想のもとに、[[平塚らいてう]]が、生田長江のすすめと母からの資金援助を受けて創刊。誌名は[[生田長江]]の命名。当時の[[ヨーロッパ]]で知的階級の女性達がはいていた靴下が青かったことから、彼女らをブルーストッキングと呼んでいたことに由来する。 但し本来ブルーストッキングの語には否定的な意味がある。
 
[[生田長江]]が[[平塚らいてう|平塚明]](はる)(当時2625歳)を中心に、女性だけの[[文芸誌]]の発行を勧め、迷う平塚を、[[日本女子大学]]の同窓、保持研子]](やすもち よしこ、当時25)(26歳)が後押しした。知友を訪ねて誘い[[二人と'''中野初子]](当時25'''(25歳)、[['''木内錠子]]'''きうち ていこ、当時25)(24歳)、[[物集和子]]当時24もずめ)(23歳)参加した。同誌第1巻第1号に平塚が著した「元始発起人となり女性は太陽であつた-1911年(明治11年)9月、『青鞜発刊に際して」という』を創刊の辞は、[[日本]]における婦人解放の宣言として注目され、多大な影響を及ぼした。当初一千部が[[東京市]][[本郷区]]駒込千駄木林町(現在の[[東京都]][[文京区]][[千駄木]])の物集和子の自室全国編集局を置いはけた。
 
『青鞜』の名は、[[生田長江]]がつけた。"Blue Stocking"の和訳。ブルーストッキングは、[[19世紀]]に[[ロンドン]]で始まった黒でない綠の長靴下、転じて、趣味のいい婦人の意、という。
[[1913年]]4月、[[文部省]]の提唱する良妻賢母の理念にそぐわないとの理由により、[[発禁]]処分を受けた。[[1915年]]1月号より、発行人が平塚から[[伊藤野枝]]に交替。[[1916年]]2月に無期休刊となる。
 
創業時の社員は、岩野清子([[岩野泡鳴]]の内縁の妻)、'''[[茅野雅子]]'''、'''[[田村俊子|田村とし子]]'''、'''[[野上弥生子|野上八重子]]'''、[[水野仙子]]ら18人、賛助員は、[[長谷川時雨]]、[[与謝野晶子]]、森しげ子([[森鴎外]]の妻)、[[小金井喜美子]]、[[岡田八千代]]、[[国木田治子]]ら7人だった。社員は会費を納めた。そして平塚の母が資金を援助した。
==引用・参考文献==
 
『無限生成-らいてう・博史-』 - 中嶌邦他、[[1997年]]、日本女子大学成瀬記念館。
創刊号の表紙は、'''[[高村智恵子|長沼智恵子]]'''が描いた。巻頭を与謝野晶子の詩が飾った。そして平塚が、『原始女性は太陽であった』に始まる創刊の辞を載せ、初めて『らいてう』の筆名を使った。
 
:ここまでの太字の氏名は日本女子大学の同窓生。
 
1912年(明治45年)の新年号は、前年の『[[人形の家]]』上演に関連して、『附録ノラ』上に社員らの評論を特集した。(雑誌上で文芸を、附録で婦人問題を扱った。)
 
社員には集散があり、尾竹一枝(尾竹紅吉)(19歳)が1912年1月に、[[神近市子]](24歳)が7月に、[[伊藤野枝]](17歳)が10月に入社した。紅吉は、酒盛りをした、吉原に登楼した、相愛のらいてうに男友達ができたなど誌上で吹聴して、青鞜社内で批判され市中の記者を喜ばせ、紅吉は表て向き退社したものの、ノラのような『目覚めた女性』を指していた『新しい女』の語が、『ふしだらな女性』の意に変わって、『青鞜』に向けられるようになった。
 
1912年4月の第2巻4号は、[[姦通]]を扱った荒木郁の小説『手紙』のゆえに[[発禁]]となり、青鞜社は物集邸から追い出された。1912年5月ごろから翌年にかけて、多くの新聞・雑誌が、からかいを込めた『新しい女』特集を載せ、順調だった『青鞜』誌に影が差した。[[津田塾大学|女子英語塾]]の[[津田梅子]]は塾生が青鞜に拘わることを禁じ、[[日本女子大学]]の[[成瀬仁蔵]]も『新しい女』を批判した。
 
青鞜側も、1913年(大正2年)の1月号と2月号の附録『新しい女、其他婦人問題に就て』で反撃し、[[岩野泡鳴]]、[[阿部次郎]]、[[馬場孤蝶]]、[[杉村楚人冠]]らは青鞜の味方だった。その2月号は、附録中の福田英の所論が社会主義的であるとして、発禁にされた。
 
黒幕だった生田長江が去り、青鞜社は1913年10月、青鞜社概則の冒頭を、『女流文学の発達を計り』から『女子の覚醒を促し』に変えた。生田長江の加筆をらいてうが初志の『女史の覚醒』に戻したのである。しかし、部数は減っていた。
 
1914年1月、らいてうは両親の家を出て、奥村博との同棲を始めた。青鞜に載せた『独立するに就て両親に』を、[[木下杢太郎]]は賞めたが、[[近松秋江|徳田秋江]]らはののしった。創刊時の5人の発起人のうち、最後まで残っていた保持研子が4月に去った。この年は[[生田花世]]が多く書いたが、世帯を持ったらいてうの多用で、9月号を出せなかった。10月の三周年記念号には、[[警保局]]長の警告を転載している。11月号は、らいてうに頼まれて伊藤野枝が薄い青鞜を出した。
 
『全部委せるならやるが、忙しい時だけのピンチヒッターは断る』と野枝が言い、らいてうは11月号から降りた。野枝は、青鞜社を無規則、無方針とした。1915年1月号は、らいてうの『青鞜と私』と、野枝の『青鞜を引き継ぐに就て』を載せた。
 
野枝編集の青鞜は、生田花世、原田皐月、伊藤野枝、[[山田わか]]、らいてう、岩野清子、[[山川菊栄|青山菊栄]]らが、貞操問題、堕胎問題、売娼制度など女性を巡る社会問題を論争したが、1916年4月に野枝が[[大杉栄]]の許へ走り、無期休刊になった。その間の1915年6月号は、原田の堕胎論で発禁処分を受けた。
 
== 付帯事項 ==
=== 青鞜社の場所 ===
* 1911年9月から:東京市本郷区林町9(現・[[東京都]][[文京区]][[千駄木]]513)、元[[東京大学|東京帝国大学]]教授[[物集高見]]邸内の、物集和子の部屋
* 1912年5月から:本郷区駒込蓬莱町(現・東京都[[豊島区]][[駒込]])の万年山勝林寺
* 1913年5月から:[[東京府]][[北豊島郡]][[巣鴨]]1163の平塚はる・奥村博の家
* 1914年1月から:巣鴨町1227の、同上
* 1914年7月から:巣鴨町上駒込411(現・[[豊島区]][[駒込]])の同上
* 1915年1月から:[[東京市]]小石川区竹早町82(現・[[文京区]][[小石川]])の、[[辻潤]]・伊藤野枝の家
* 1915年3月から:東京市小石川区指ヶ谷町92(現・文京区[[白山]]二丁目の同上
=== 発行所 ===
* 1911年9月から:三秀舎
* 1912年9月から:東雲堂
* 1913年11月から:東京堂
* 1914月4月から:尚文社
* 1915年2月から:東京堂
* 1915年9月から:日月社
 
== 出典 ==
* らいてう研究会編:『「青鞜」人物事典 110人の群像』、[[大修館書店]](2001)ISBN 9784469012668
* 堀場清子:『青鞜の時代 平塚らいてうと新しい女たち』、[[岩波新書]](1988)ISBN 9784004300151
 
== 関連文献 ==
* 『青鞜復刻版』、不二出版(1983)
* 瀬戸内晴美:『青鞜』、[[中公文庫]](1987)ISBN 9784122014183
* 青鞜社編:『青鞜小説集』、東雲堂(1913)→ 復刊、不二出版 叢書青鞜の女たち7(1986)
 
==関連項目==
* [[坂本真琴平塚らいてう]]
* [[坂本真琴]]
**平塚に共感して青鞜社に入社。その後新婦人協会の結成にも参加した婦人運動家。
* [[新婦人協会]]
 
**青鞜社解散後、平塚らが結成した日本初の婦人運動団体。
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
 
{{DEFAULTSORT:せいとう}}
29 ⟶ 77行目:
[[Category:フェミニズム]]
[[Category:日本の思想史]]
{{lit-stub}}
{{japanese-history-stub}}
 
[[en:Bluestocking (journal)]]