「片岡芦燕」の版間の差分

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[[File:Nanatsu-wari Maru ni Ni-hiki inverted.jpg|thumb|100px|七つ割<br />丸に二引]]
'''片岡 芦燕'''('''かたおか ろえん''')は、[[歌舞伎]]役者。当代6代目。
[[File:Ichō-zuru inverted.jpg|thumb|100px|銀杏鶴]]
'''片岡 芦燕'''('''かたおか ろえん''')は、[[歌舞伎]]役者の[[名跡]]当代6代目[[屋号]]は[[松嶋屋]]。[[定紋]]は七つ割丸に二引、替紋は銀杏鶴
 
「芦燕」は八代目片岡仁左衛門の[[俳名]]に由来する。この初代と、続く二・三・四代目は、それぞれ「芦燕」を俳名としては使ったが、実際にこれを名跡として襲名することはなかった。実際に「片岡芦燕」を襲名したのは五代目が最初である。
*初代 片岡芦燕 - [[片岡仁左衛門 (8代目)|8代目片岡仁左衛門]]の[[俳名]]。
 
*2代目 片岡芦燕 - 後の2代目[[片岡我童]]([[片岡仁左衛門 (9代目)|9代目片岡仁左衛門]]を追贈)の俳名。8代目片岡仁左衛門の養子。
*3代目 片岡芦燕 - [[片岡仁左衛門 (108代目)|10初  片岡仁左衛門芦燕]]の俳名。
*4代目 片岡芦燕 - *[[片岡仁左衛門 (127代目)|12代目片岡仁左衛門]]の俳名養子、1810–6310はじめ[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]の門人からその養子にまでなったが、後に離縁され、[[嵐璃寛 (2代目)|二代目嵐璃寛]]の門人に。その後こんどは七代目片岡仁左衛門の門人となり、さらにその養になって大名跡を継いだ
*5*(六代目)[[市川新之助]](成田屋)→ 片岡芦燕三升岩五郎(成田屋)→ -嵐橘次(伊丹屋)→ 後の初代[[片岡我當]] → (13代目)|13代目(本来は5代目)[[片岡我童]](14 → 八代目[[片岡仁左衛門が追贈)。12]](俳名:{{smaller|初目片岡仁左衛門の長男。}}芦燕)
 
*[[片岡芦燕 (6代目)|6代目 片岡芦燕]] - 12代目片岡仁左衛門の三男。
*([[片岡我當 (2代目)|二代目 片岡芦燕]])
**初代の養子、1839–72。はじめ[[三枡大五郎 (4代目)|四代目三桝大五郎]]の門人、後に二代目片岡我童の門人となり、その養子にまでなるが、三十路半ばで早世。
**三桝梅丸(京桝屋)→ 片岡待之助 → 二代目片岡我當(俳名:{{smaller|二代目}}芦燕)→ 贈九代目片岡仁左衛門(明治四十年追贈)
 
*初代 片岡芦燕 - [[片岡仁左衛門 (810代目)|8代目 片岡仁左衛門]]の[[俳名芦燕]]
**初代の三男、1851–95。意固地と負けん気が災いして晴れ舞台となるはずの片岡仁左衛門襲名披露興行を台無しにしてしまい、そのことを気に病んで間もなく悶死。
**初代[[片岡土之助]] → 片岡松若 → 三代目片岡我童 → 九代目片岡仁左衛門(俳名:{{smaller|三代目}}芦燕)→ 十代目片岡仁左衛門(明治四十年改)
 
*([[片岡仁左衛門 (12代目)|四代目 片岡芦燕]])
**初目の外孫で三代目の養子、1882–1946。戦後間もない食糧難の時代、喰い扶持の少ないことを逆恨みした住み込みの門人によって、妻・三男・女中二人とともに自宅で惨殺された( →「[[片岡仁左衛門一家殺害事件]]」を参照)。
**片岡東吉 → 二代目片岡土之助 → 四代目片岡我童 → 十二代目片岡仁左衛門(俳名:{{smaller|四代目}}芦燕)
 
*[[片岡我童 (13代目)|五代目 片岡芦燕]]
**四代目の長男、1910–93年。惨殺された十二代目仁左衛門の長男として、我こそが「次の仁左衛門」たるべきとの自覚から、代々の仁左衛門が俳名としてきた「芦燕」を名跡とし、自分はこれを五代目として襲名した。その後は、本来「五代目我童」であるべきところをあえて「十三代目我童」を名乗り、ここでも主張を貫いている。女形であるが故に生前は果たせなかった「仁左衛門」は、死後まもなく追贈されることになった。
**片岡はじめ → 片岡ひとし → 五代目片岡芦燕 → 十三代目片岡我童 → 十四代目片岡仁左衛門(追贈)
 
*[[片岡芦燕 (6代目)|6代目 片岡芦燕]] - 12代目片岡仁左衛門の三男。
**四代目の三男、1926– 。当代。
**片岡大輔 → 六代目片岡芦燕
 
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[[Category:歌舞伎役者の名跡]]
{{人名の曖昧さ回避}}
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