「渋沢敬三」の版間の差分

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もともと、[[動物学]]者を志し、[[仙台]]の旧制[[東北大学|第二高等学校]]農科に進学することを目指す。しかし、実父の篤二が廃嫡された事情もあり、祖父・栄一が羽織袴の正装を着て頭を床に擦り付けながら、[[第一銀行]]を継ぐように嘆願し、結局 英法科に進学する。[[東京帝国大学]]経済学部を卒業後、[[横浜正金銀行]]に入行し、[[ロンドン]]支店などに勤務した。 その間に[[木内重四郎]]・磯路夫妻の次女・登喜子と結婚している。登喜子の父・重四郎は[[京都府]][[知事]]等を務めた[[官僚]]で、母・磯路は[[三菱財閥]]の創始者・[[岩崎弥太郎]]の次女。 従って敬三は岩崎弥太郎の孫娘と結婚したことになる。[[1926年]]に第一銀行へ移り、副頭取などを経て、[[1942年]]に日本銀行副総裁、[[1944年]]には第16代総裁となる。だが当時、軍部の圧力による[[インフレーション]]政策の下で日銀は、敗戦まで赤字[[国債]]を無制限に引き受け、民間で調達できない軍需融資の資金も日銀の貸し出し増加という形で無制限に供給し、敬三はこれを止めることはできなかった。
 
[[第二次世界大戦]]後は[[幣原喜重郎]]内閣の[[大蔵大臣]]を務める。半年ほどの在任中に預金封鎖、新円切り替え、財産税導入など戦後の激しいインフレーションの処理に当たる。だが、渋沢家は[[GHQ]]の[[財閥解体]]の対象となり、[[1946年]]には[[公職追放]]の指定を受ける。 そして、自ら導入した財産税のため、三田の自邸を物納する。公職追放を解除された後は、[[経済団体連合会]]相談役、[[国際電信電話]](KDD。のちの[[KDDI]])社長、[[文化放送]]社長、[[高松宮]]家財政顧問などを務める。
 
その傍ら、若き頃の[[柳田國男]]との出会いから民俗学に傾倒し、東京 三田にある自邸の車庫の屋根裏に二高時代の同級生とともに動植物の標本、[[化石]]、郷土玩具などを収集した私設[[博物館]]「アチック・ミュージアム」を開設した。 アチックミュージアムはその後、日本常民文化研究所となり、アチック・ミュージアムに収集された資料は現在の[[国立民族学博物館]]の母体となった。多くの民俗学者を育て、[[宮本常一]]、[[白鳥庫吉]]、[[梅棹忠夫]]、[[江上波夫]]、[[中根千枝]]、[[川喜多二郎]]、[[今西錦司]]、[[網野善彦]]らが彼の援助を受け、成長した。