「エルンスト・ヨハン・フォン・ビロン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: et:Ernst Johann von Biron
編集の要約なし
3行目:
 
== 生涯 ==
ビロンは'''エルンスト・ヨハン・ビューレン'''(Ernst Johann Bühren)として[[クールラント]]の[[カルンツェムス]]で生れた。祖父は[[ヤーコプ・ケトラー]]公に馬丁として仕えて小さな所領を与えられた男で、ビロンは父が相続したこの小領地で生れたのだった。彼はほとんど教育を受けずにケーニヒスベルク・アカデミーに入学し、暴力沙汰を起こして放校処分となった。1714年、ビロンは出世話を求めてロシアに赴き、[[アレクセイ・ペトロヴィチ|アレクセイ・ペトロヴィチ]]大公の妻[[シャルロッテ・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|シャルロッテ・クリスティーネ]]妃の貧相な小宮廷で地位を得ようとしたが失敗した。ビロンは[[ミタウ]]に戻ると、クールラント公国統治を任されていたロシアの[[ピョートル・ベストゥージェフ]]伯爵の情婦になっていた自分の姉妹を通じ、宮廷に足がかりを得た。ベストゥージェフ伯爵は若いクールラント公爵未亡人[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ・イヴァノヴナ]]と愛人関係にあった。主人である伯爵が不在のあいだ、ハンサムでご機嫌取りの上手いビロンはアンナの新しい愛人におさまり、ベストゥージェフとその一族を失寵させ、追放した。
 
これ以後、アンナは死ぬまでビロンの甚大な影響力を受け続けることになった。1730年、アンナがロシア女帝に即位すると、ビロンは妻ベニグナ・フォン・トロタとともに[[モスクワ]]に連れてこられ、女帝から莫大な財産と名誉を与えられた。1730年5月19日にアンナの戴冠式が執り行われると、ビロンは侍従長、ロシア帝国伯爵となった。叙爵に際してビロンはフランスの大貴族ビロン公爵家の紋章を採用したといわれ、ヴェンデン(現在の[[ラトヴィア]]領[[ツェーシス]])に領地を与えられ、5万クラウンの年金を受けることになった。