「トルコの政治」の版間の差分

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== 政治制度 ==
トルコは[[三権分立]]を標榜しており、[[立法府]]として一院制の[[トルコ大国民議会]]({{lang|tr|Türkiye Büyük Millet Meclisi}} 定数550名、任期5年)、[[行政府]]として[[大統領]]および[[内閣]]、[[司法府]]として最高裁判所 ({{lang|tr|Yargıtay}}) が置かれる。
 
トルコは[[三権分立]]を標榜しており、[[立法府]]として一院制の[[トルコ大国民議会]]({{lang|tr|Türkiye Büyük Millet Meclisi}} 定数550名、任期5年)、[[行政府]]として[[大統領]]および[[内閣]]、[[司法府]]として最高裁判所({{lang|tr|Yargıtay}})が置かれる。
 
国権の最高機関はトルコ大国民議会で、一院制により強い権限をもつ。[[元首|国家元首]]は国民投票によって選出される[[トルコ共和国の大統領|大統領]](任期5年)が務めるが、行政は議会の承認に基づき大統領が間接的に指名する[[首相]]の権限が強い[[議院内閣制]]をとる。2007年現在の首相は、議会で単独過半数を占める与党[[公正発展党]]の党首[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]]、大統領は同じく公正発展党の[[アブドゥラー・ギュル]]である。
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多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、大政党の出現を抑止した[[1961年]]憲法が議会を[[二院制]]とし、少数政党が乱立したことに対する反省から、[[1982年]]憲法では、大国民議会の選挙は、[[比例代表制]]で10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式をとり、小党乱立を防ぐこととしている。
 
この制度のために、[[2002年]]の総選挙では選挙前に[[中道右派]]・イスラーム派が結集して結党された公正発展党と、野党で[[中道左派]]系の[[共和人民党]]の2党のみが地すべり的に議席を獲得、総選挙以前の首相[[ビュレント・エジェヴィト]]の中道左派政党[[民主左派党]]とその連立与党である中道右派政党[[祖国党]]、[[極右]]政党[[民族主義者行動党]]は議席を完全に失って下野、さらにこの影響で、[[タンス・チルレル]]([[正道党]])、[[ネジュメッティン・エルバカン]]([[至福党]])など首相経験者の大物政治家が党首辞任に追い込まれる波乱があった。
 
[[2007年]]の総選挙でも、公正発展党は圧倒的な勝利を収め、単独過半数を獲得。野党勢力は、共和人民党、民族主義者行動党が議席を獲得したが、中道右派の[[民主党 (トルコ)|民主党]](選挙前に[[正道党]]から改称)などの他の政党は、得票率が10%に届かず、議席を獲得することができなかった。
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== 世俗主義 ==
トルコは、イスラーム世界でも屈指の[[世俗主義]]国家として有名である。それを制度的に支えるのは[[フランス]]の[[政教分離原則#分離型(厳格な分離)|ライシテ]]を模範とする極端な[[政教分離原則]]であり、[[国父]][[ケマル・アタテュルク]]によって引かれたトルコ共和国の基本路線となっている。[[フランス]]と同じように、公共の場で宗教的な思想を公にすることは強く忌避され、様々な場で女性の[[ヒジャブ|スカーフ]]着用をめぐる問題が起こることもある。(2008年6月5日には、憲法裁判所が[[公正発展党]]が進めていた大学構内でのスカーフ着用容認の憲法改正を違憲とする判決を下した。)
 
トルコは、イスラーム世界でも屈指の世俗主義国家として有名である。それを制度的に支えるのは[[フランス]]の[[ライシテ]]を模範とする極端な[[政教分離原則]]であり、[[国父]][[ケマル・アタテュルク]]によって引かれたトルコ共和国の基本路線となっている。[[フランス]]と同じように、公共の場で宗教的な思想を公にすることは強く忌避され、様々な場で女性の[[ヒジャブ|スカーフ]]着用をめぐる問題が起こることもある。(2008年6月5日には、憲法裁判所が[[公正発展党]]が進めていた大学構内でのスカーフ着用容認の憲法改正を違憲とする判決を下した。)
 
しかしながら、トルコの世俗主義をフランス型の政教分離とまったく同じように理解することはできない。アタテュルクは全ての宗教団体の結社を禁じる一方、宗教事項の総理府所属の宗務庁({{lang|tr|Diyanet İşleri Başkanlığı}})統括とした。宗務庁は全国全ての[[モスク]]を維持設置し、導師([[イマーム]])や説教師を公務員として採用し、[[クルアーン]](コーラン)学校や[[イマーム・ハティープ学校|イマーム学校]]を監督運営している。すなわちアタテュルクの政教分離とは、実際には宗教はきわめて厳格な国家管理のもとに置き、トルコ共和国の進める世俗的で近代的な[[国民国家]]のあり方に反しない範囲に宗教を押し込め、完全に統制しようとするものであった。
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== 政軍関係 ==
 
トルコ共和国の建国以来、[[国父]]ケマル・アタテュルクをはじめ、政治家を数多く輩出した軍は、しばしば政治における重要なファクターとなっている。軍は平時は憲法にのっとって[[文民統制]]に服していることになっているが、[[イスラーム主義]]の伸張や政府の混乱に対してしばしば圧力をかけ、[[1960年]]の[[5月27日クーデター]]、[[1980年]]の[[9月12日クーデター]]と二度の[[クーデター]]も起こした。
 
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== 欧州連合加盟問題 ==
 
{{main|欧州連合の拡大#トルコ}}
トルコ政府は近代化改革の総決算として[[欧州連合]]加盟を目指しており、国民の過半数に支持されている。一方、ヨーロッパ側は欧州連合加盟交渉開始の条件として、[[キプロス]]問題の解決、トルコ政府が行ってきた[[クルド人]]や[[イスラーム主義]]に対する人権抑圧の改善を掲げ、欧州連合加盟問題は長らくトルコにおける課題となってきた。