「小津正次郎」の版間の差分

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そして、順番は前後するが「空白の一日」を利用して[[読売ジャイアンツ|巨人]]入りを発表し、契約が無効となって、巨人がドラフトをボイコットすることで身分が宙に浮いた[[江川卓 (野球)|江川卓]]を一位指名。抽選によって交渉権を獲得し、入団後即[[小林繁]]との交換トレードで巨人に放出という形をとり、結果的に小林を獲得した。(詳細は[[江川事件]]を参照。)
 
以上の様々な改革だけでなく、選手会長に就任した[[江本孟紀]]に意見を聞き、[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]のロッカールームや風呂・トイレを改装するなど、一般の目に届かないところにまで改革を断行。他にも、阪神電鉄の車庫であった跡地を2軍練習場の[[阪神浜田球場]]として改修するなどの辣腕により、「ブルドーザー」の異名をとった。また、ユニフォームもそれまでのギザギザライン(※くわしくは[[1975年の阪神タイガースのユニフォーム]]を参照)が廃止されてプルオーバースタイルとなり、黒と黄色のノーマルラインに変更された。
 
ブレイザー新監督のもと、ペナントレースに登場した[[1979年]]にはその小林が22勝をげて[[沢村栄治賞|沢村賞]]を受賞。田淵に代わって主軸打者となった[[掛布雅之]]は当時の球団新記録となる48[[本塁打]]を打って[[本塁打|本塁打王]]を獲得し、一躍田淵に代わるミスタータイガースとなった。順位は4位に終わったが、前年から大きく飛躍しブレイザー・イズムも徐々に浸透していくかに見えた。
 
しかし、その年の[[ドラフト会議]]で獲得した新人・[[岡田彰布]]の起用をめぐってフロントと現場が対立。
[[1980年]][[5月14日]]にブレイザー監督が辞任し、小津の推進した球団改革は現場レベルでは頓挫する形となった。[[中西太]]ヘッドコーチが監督に昇格したが、その年は掛布の故障もあって5位に終わる。[[1981年]]は3位と5年ぶりにAクラスを確保したが、中西監督の起用法に不満をもっていた江本が、降板後に「ベンチがアホ」と発言したとされて、引退。<ref>江本は著書の中で、「『ベンチがアホ』は自分が断片的に語った言葉を記者がそういう文章にしたもので、そうは言っていない」と記している。詳しくは江本孟紀の項目を参照。</ref>