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[[画像:Helmut Newton Grave.jpg|220px|thumb|ヘルムート・ニュートンの墓石]]
'''ヘルムート・ニュートン'''('''Helmut Newton'''、[[1920年]][[10月31日]] - [[2004年]][[1月23日]])は、[[ドイツ]]出身の[[写真家]]。 
ドイツ語名は、'''ヘルムート・ノイシュテッター'''('''Helmut Neustädter'''、日本語ではニュートンは「新しい町」、ノイシュテッターは「新しい町の人」の意味)。著名なカメラマンであり、女性の[[ヌード]]作品は特に有名である
 
==経歴==
ニュートンは、1920年10月31日[[ドイツ]]([[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]])の首都[[ベルリン]]に、[[ユダヤ人]]の衣料工場主の父と同じくユダヤ系[[アメリカ人]]の母の間に生まれた。
 
ニュートンは、ヴェルナー・フォン・トロチュケ([[:en:Werner von Trotschke|Werner von Trotschke]])[[ギムナジウム]]とベルリンのアメリカンスクールで学んだ。青年時代から[[写真]]に興味を持ちイヴァとして知られていたドイツの写真家エルゼ・ジーモン (Else Neulander Simon) のもとで働く。
 
[[1938年]]ユダヤ人迫害のドイツを離れ、[[シンガポール]]で短期間ストレーツ・タイムズ社の写真家として働く。[[第二次世界大戦]]中の[[1940年]]から[[1945年]]まで、オーストラリア軍で軍務に就き、輸送隊に所属した。
 
[[1948年]][[オーストラリア]]の女優ジューン・ブラウン([[w:June Browne]])と結婚。戦後、フリーランサーのカメラマンになり、彼の作品は[[PLAYBOY]]誌を始めとする[[雑誌]]に載るようになる。[[1950年代]]の終わりから、世間の風潮を鋭く捉えた写真を専門とするようになる。
 
[[1961年]]に[[パリ]]に住まいを移し、カメラマンとして広範囲な仕事を開始する。ニュートンは、「[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]」を始めとする[[フランス]]の雑誌に作品を載せる。ニュートンは、しばしば[[サディズム]]、[[マゾヒズム]]と[[フェティシズム]]をともなった[[エロチック]]な型式美による場面構成で特徴づけられた特別のスタイルを確立した。[[1970年]]心臓発作に襲われるが、精力的に仕事を広げていった。彼の作品に対する評判(それは、しばしば悪評を伴ったが)は、高度な技術的視点によって補完されるに十分なものであった。[[1980年代]]の「ビッグ・ヌード」"Big Nudes" シリーズは、彼のエロチックな都市のスタイルというテーマが頂点に達した作品として特筆される{{誰}}
 
ニュートンは、さらに空想的な手法によりポートレートに新たな局面を切り開いていった。[[2003年]]10月、ニュートンは最愛の故郷であるベルリンのプロイセン文化財団に多くの写真コレクションを寄贈した。晩年は、[[モンテカルロ]]と[[ロサンジェルス]]で暮らすことが多かった。
 
2004年1月23日[[ハリウッド]]で自動車事故のため死去した。遺灰は[[ベルリン]]に埋葬された。