「アラーウッディーン・テキシュ」の版間の差分

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スルターンシャーはさらに南下して[[アフガニスタン]]の[[ゴール朝]]に逃れ、今度は王位争いに勝利したテキシュと仲違いしたキタイ人の助けを受けてホラズムに入った。テキシュはウルゲンチに篭って守備を固め、ホラズムを守りきったが、スルターンシャーはそのままキタイ人の援助によりホラーサーン北部の都市[[メルヴ]]を奪い、再びホラズム・シャー朝は南北に分裂した。兄弟はこれら周辺勢力まで巻き込んで長く抗争を続けるが、[[1189年]]になって両者は講和、スルターンシャーはテキシュの王位を認め、テキシュはホラズム・シャー朝の統一君主として正式にスルターンに即位した。
 
テキシュはホラーサーンの統治を固めてさらに西の[[イラン]]への進出を開始した。[[1192年]]には[[アゼルバイジャン]]を支配する[[アタベク]]政権[[イル・ドュグュズ朝]]の要請を受けてイラン中央部まで兵を進めたが、弟のスルターンシャーがウルゲンチを窺っているとの報を受けてホラズムに帰った。翌[[1193年]]、スルターンシャーが没し、ホラズム・シャー朝はようやく統一を回復する。[[1194年]]、テキシュは改めてイランへと進出し、中央イランの[[レイ]]近郊でイラン西部を支配する[[セルジューク朝]]最後のスルターン、トゥグリル3世を廃死させ、[[イラク・セルジューク朝]]を滅亡させた。この遠征によってホラズム・シャー朝は東部イランのホラーサーンから西部イランの[[ハマダーン]]まで支配領域を広げ、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]、[[ナースィル]]かた正式にスルターンの称号を認めた。[[1198年]]には再び[[イラク]]に遠征し、[[バグダード]]まで支配下に収めてカリフを庇護下におく。
 
その後はイランの各地で勢力をもつ[[イスマーイール派]]勢力との抗争に明け暮れ、1200年に病没した。