「蒲池鎮漣」の版間の差分

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鎮漣は頑なに断り続けるが、隆信の使者は執拗かつ丁重に鎮漣の母や重臣を欺きながら説得し、ついに断りきれなくなった鎮漣は家老の[[蒲池鎮久]]をはじめ選りすぐりの屈強な家臣200名を連れて柳川を出発する。留守役で鎮漣の従兄弟でもあった家老の[[大木統光]]が鎮漣の肥前行き中止を進言するも、鎮漣の決意を変えるには至らなかった。
 
[[筑後川]]を渡って肥前に入った鎮漣は[[佐賀城]]で隆信の嫡男・[[龍造寺政家|政家]]の歓待を受けるが、その翌日、与賀神社の近くで龍造寺の部隊に襲撃される。蒲池氏200の精兵は奮闘するも多勢に無勢で鎮漣は自、鎮久をはじめ鎮漣の郎党は全員討死した。
 
鎮漣の死を見届けた隆信は、時を置かずに柳川の鎮漣一族の抹殺を命じ、鍋島直茂の督戦の下、田尻鑑種が柳川に兵を進め凄惨な[[柳川の戦い]]が行われた。蒲池鎮漣一族の抹殺を命じた隆信だったが、その酷なやり方は龍造寺四天王の一人[[百武賢兼]]など隆信の腹心からも疑問を持たれた。賢兼は出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えて涙を流し、ついに最後まで出陣しなかった。鎮漣一族冷酷な殺戮惨い仕打ちは、隆信に対する筑後の有力国人の反発、離反を招き、その後の龍造寺氏衰退の因の一つとなった。
 
== 玉鶴姫 ==