「道宗 (遼)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
SassoBot (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
16行目:
|没年 =[[1101年]][[1月13日 (旧暦)|1月13日]]
|父 =[[興宗 (遼)|興宗]](長男)
|母 =[[仁懿蕭皇后]]
|皇后 =[[宣懿蕭皇后]]
|陵墓 =慶陵
|年号 =[[清寧]] : [[1055年]] - [[1064年]]</br>[[咸雍]] : [[1065年]] - [[1074年]]</br>[[太康 (遼)|太康]] : [[1075年]] - [[1084年]]</br>[[太安 (遼)|太安]] : [[1085年]] - [[1094年]]</br>[[寿昌]] : [[1095年]] - [[1100年]]</br>[[乾統 (遼)]] : [[1101年]]
|注釈 =
24行目:
'''道宗'''(どうそう)は[[遼|遼朝]]の第8代皇帝。
==生涯==
遼の第7代皇帝・[[興宗 (遼)|興宗]]の長子で、母は[[仁懿皇后(蕭氏)]]。早くから[[儲君]]に定められ、朝政に参加した。[[重熙 (元号)|重熙]]24年([[1055年|1055]])8月、死去した興宗のあとを継いで即位。はじめに興宗の同母弟・[[耶律重元]]を[[皇太子|皇太叔]]および天下兵馬大元帥としたが、[[清寧]]9年([[1063年|1063]])7月、重元・[[耶律涅魯古|涅魯古]]父子が謀反を起こすと、母后仁懿皇后が中心となって、[[耶律仁先]]・[[耶律乙辛]]らに命じてこれを平定した。[[咸雍 (元号)|咸雍]]2年([[1066年|1066]])、[[国号]]「[[契丹]]」を改めて「大遼」とした(契丹から遼への改名は2度目)。
 
前半期時代は、「直言を求め、治道を訪ねる」(『[[遼史]]』)という宗旨のもと、[[勧農]](農業の振興)・[[興学]](学校の建設)・[[救災]]などに努めたが、やがて遊猟と造寺にふけて政治を顧みなくなり、耶律乙辛の専権を許した。乙辛は聡明な[[皇太子]][[耶律濬]](または梁王・耶律浚、順宗・章懐太子)を忌避し、[[大康 (元号)|大康]]元年([[1075年|1075]])11月、まず皇太子の生母である懿徳皇后(蕭観音)を道宗に讒言した。乙辛と組んだ[[宰相]][[張孝傑]]の証言によって皇后の不貞を信じた道宗は激怒し、皇后に自殺を命じた。乙辛はついでに皇太子を無実の罪に陥れ、道宗に説いてこれを幽閉の末暗殺した。齢21だった。乙辛は自分に近い皇后を立て、ますます専権した。
34行目:
 
== 宗室 ==
=== 妻妾后妃 ===
*[[宣懿蕭皇后]](蕭観音)
*蕭恵妃
=== 子 ===
*順宗・章懐太子・[[耶律濬]](梁王・耶律浚とも、契丹名は阿魯斡)
=== 女 ===
 
*魏国公主(諱は撤葛只)
 
*趙国公主(諱は糺里) - 兄を謀殺した奸臣の乙辛を誅殺。
*梁宋国大長公主(諱は特里)
*趙国公主(諱は糺里) - 兄を謀殺した奸臣の乙辛を誅殺。