「相模原」の版間の差分

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相模原駅周辺には[[銀行]]や企業の事務所などが集まり、市役所が所在する中央地区とともに相模原市の[[中心業務地区]]となっている。駅周辺には多くの飲食店が集積し、以前は大型商業施設が2店舗([[ダイエー]]および[[忠実屋]])進出するなど、同市の中心商業地となっているが、1990年代以降に[[再開発]]が行われた[[相模大野]]や[[橋本 (相模原市)|橋本]]の成長によってその地位は低下している。
 
区域内には[[江戸時代]]末期の[[新田開発]]によって開かれた[[清兵衛新田]]への入植者の集落が含まれるが、現在は全域が市街地化して農地は消滅しており、農村的景観はほとんど失われている。国道16号に面した区画にはレジャー施設や釣り具店などの[[ロードサイド店舗]]が多く進出している。[[在日米軍]][[相模総合補給廠]]正面入口前の大通りに面し、通りを挟んで隣接する[[矢部 (相模原市)|矢部]]一丁目にまたがる西門地区は、元は基地労働者向けの飲食店街として成立したが、現在では徒歩圏内の住民を相手とする[[日用品]][[小売]][[商店街]]となっている。駅や大通り、およびこれらの商業施設から離れた区画は住宅地となっている。
 
== 相模原という地名 ==
[[相模国]][[高座郡]]の北部から中央部を占める[[洪積台地|台地]]上の[[原野]]は古くは'''相模野'''と呼ばれた。江戸時代には周辺農村の草刈り場として台地上に設定された[[入会地]]の総称として用いられ、[[地形]]について述べる際に用いられる「[[相模野台地]]」という呼称もこれによる。それに対して、'''相模原'''という呼称の使用例は比較的古い史料には見られないようである。住居表示以前の地籍図に記載されている小字名等を収録した『土地宝典』(1963年)には大字[[淵野辺]]およびここから分立した大字大沼に「相模原」という小字名が見られる<ref>現在の中央区鹿沼台一丁目・二丁目、共和一丁目〜四丁目、相生一丁目・二丁目、高根一丁目〜三丁目、由野台一丁目〜三丁目、東淵野辺五丁目(以上大字淵野辺)、南区大野台一丁目〜八丁目(三丁目・四丁目の一部を除く。以上大字大沼)。</ref>。また、大字上溝の字戌四号<ref>大字上溝(旧上溝村)では1875年(明治8年)の[[地租改正]]の実施に際して従来の字名の統合再編が行われており、さらに軍都計画区域では区画整理後の街路網に合わせて小字の区割が再編されている。『土地宝典』(1963年)による字戌四号の範囲は現在の中央区中央三丁目・四丁目、富士見一丁目・六丁目および弥栄三丁目の一部、松が丘一丁目。</ref>に含まれる区域の古い小字名として「相模原」と記載しているものがある<ref>以上、『地名調査報告書』 相模原市教育委員会、1984年</ref>。さらに「[[相模原市#軍都計画|相模原軍都計画]]」に基づき1940年代に実施された[[区画整理事業]]以前の地図では、[[1889年]]([[明治]]22年)の[[明治の大合併]]の際に溝村(1926年に町制施行し[[上溝町]])に編入された旧田名村の[[飛び地]]<ref>現在の中央区中央三丁目〜六丁目、横山一丁目〜四丁目の各一部。</ref>について「相模原」という小字名が記載されている。ただし、これらの「相模原」という地名がいつ頃から用いられていたかは明確ではない。
 
1930年代後半以降、現在の相模原市域への[[大日本帝国陸軍|陸軍]]施設の進出が相次いだが、それらの中には相模原陸軍病院(1940年(昭和15年)の開設当初は原町田陸軍病院。在日米陸軍医療センターを経て現・[[グリーンホール相模大野]]ほか)などのように「相模原」を称するものがあった。[[1938年]](昭和13年)に臨時東京第三陸軍病院(現・[[独立行政法人国立病院機構相模原病院]])が開設されると、付近を通過する小田原急行電鉄(現[[小田急電鉄]])が[[小田急小田原線|小田原線]]上にこの病院への下車駅となる'''[[小田急相模原駅|相模原駅]]'''を開業した。ただし、これらはいずれも現在の相模原市[[南区 (相模原市)|南区]]の小田急線沿線に当たる。