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|国歌名 =
|国歌追記 =
|位置画像 = Almoravids1120.png
|位置画像説明 = 1120年頃のムラービト朝の領土
|公用語 =[[アラビア語]]、[[ベルベル語]]
|首都 =[[Aghmat]]、[[マラケシュ]]、[[コルドバ]]
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|変遷1 =成立
|変遷年月日1 =[[1040年]]
|変遷2 =[[ガーナ王国]]の首都[[クンビ・サレ]]を占領
|変遷年月日2 =[[1076年]]
|変遷3 =
|変遷年月日3 =
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|注記 =
}}
[[ファイル:Almoravid Empire.png|thumb|330px|right|ムラービト朝とその勢力の拡大。[[1077年]]に[[ガーナ王国]]を征服している。]]
'''ムラービト朝'''([[アラビア語]]:'''المرابطون''' al-Murābiṭūn)は、[[1056年]]に[[北アフリカ]]の[[サハラ砂漠]]西部に興った[[ベルベル人|ベルベル]]系の砂漠の遊牧民サンハージャ族を母胎とする[[モロッコ]]と[[アルジェリア]]北西部、[[イベリア半島]]南部の[[アンダルス|アンダルシア]]を支配した[[イスラム王朝]]。
 
英語読みでの'''アルモラヴィド朝'''({{lang-en|'''Almoravid dynasty'''}})とも称される。
 
== ムラービトゥーンの興起 ==
[[1039年]]、サンハージャ族の一小部族の族長ヤフヤー・イブン・イブラーヒームに率いられた[[マッカ|メッカ]]巡礼の一団は、帰途に立ち寄った[[カイラワーン]]で、[[スンナ派]]に属するイスラム神学者アブー・イムラーン・アル=ファースィーの神秘主義的な教説に共鳴して、体の弱いアブー・イムラーンから紹介された孫弟子イブン・ヤーシーンとともに故郷に帰った。しかし、イブン・ヤーシーンの教説は、サンハージャ族一般の受け入れるところとならず、仕方なく、イブン・ヤーシーンと彼の教説を支持するサンハージャ族の族長たちとその配下は、現在の[[モーリタニア]]にある[[セネガル川]]にある島に城塞(ラバート)を築いてそこに籠もり厳しい修道生活を始めた。そのため、彼らは、「城塞(ラバート)に拠る人々」という意味の「ムラービトゥーン」と呼ばれた。これがムラービト朝の名称の起源で、[[ヨーロッパ]]には、[[スペイン語]]訛りで'''アルモラビトヴィド朝'''として知られる。

ムラービトゥーンたちは、修道生活に努める一方、将来の教勢拡大を考えて、身体を鍛え、剣術などの武術を磨いた。つまり彼らは、ある意味、[[キリスト教]]の[[騎士修道会]]に似た存在であった。[[1053年]]から翌[[1954年]]にかけてアルジェリア国境に近いアトラス山中、ターフィラルト地方のサハラ越えの交易の要衝のひとつ[[隊商]]都市シジルマーサを確保した。これを契機に、宗教的指導者イブン・ヤーシーンとヤフヤー・イブン・イブラーヒームの子孫で世俗的指導者であるヤフヤー・イブン・ウマルに率いられたムラービトゥーンたちの勢力は拡大され、「アッラーへの帰一とスンナ派帰属」の教理は、異端的な教説も含めて多数の教説が入り混じる、当時のモロッコで改めて見直されるようになった。しかし、ムラービトゥーンたちも必ずしも一枚岩でない面もあり、[[1056年]]にヤフヤー・イブン・ウマルが暗殺され、[[1058年]]にもイブン・ヤーシーンの暗殺が起こっている。ヤフヤー・イブン・ウマルは、死の直前に弟のアブー・バクル・イブン・ウマル(在位:[[1056年]] - [[1087年]])に後事を託し、イブン・ヤーシーンの暗殺後は、アブー・バクルが聖俗を兼ねる指導者となった。王朝の成立年とされる[[1056年]]とは、このアブー・バクル・イブン・ウマルがムラービトゥーンの指導者になった年である。
 
== モロッコ制圧とガーナ王国の征服 ==
[[ファイル:Almoravid Empire.png|thumb|330px|right|ムラービト朝とその勢力の拡大。[[10771076年]]に[[ガーナ王国]]を征服している。]]
ムラービト朝は、やがて、モロッコ南部のスース地方の主要都市[[タルーダント]]を陥落させ、[[大西洋]]沿岸部のアブダ平野を北上、港湾都市サフィーなどを手に入れた。残るは、[[フェズ]]を中心とするベルルアータ地方であった。ベルルアータ地方の勢力は頑強に抵抗したが、「信仰は自由」という保証を与えて、ようやく政治的にはムラービト朝に服属することになった。アブー・バクルは、フェズ攻略を含めたモロッコ全土の攻略を[[従弟]]のユースフ・イブン・ターシュフィーン(在位:[[1061年]] - [[1106年]])に委ね、南方の[[ガーナ王国]]征服に専心することになる。[[1061年]]か[[1062年]]頃からガーナ王国に対して[[ジハード]]を挑み、[[1076年]]に、首都[[クンビサレ]]を陥落させて支配し、付近に住むサラコレ族に貢納をとった。やがて反乱が起こったので、その鎮定に向かったが、[[1087年]]に死亡した。
 
== ムラービト朝の全盛期とアンダルシア情勢 ==
一方[[ユースフ・イブン・ターシュフィーン]]も有能な君主だった。彼は、[[マラケシュ]]の町を自らの手で立ち働いて整備し、[[モスク]]建設、[[潅漑]]路の開発を行い、「預言者[[ムハンマド]]と同様」という賛辞を浴びた。ユースフは[[1069年]]にフェズを占領し、カラーウィーン地区とアンダルス地区に分かれていたフェズを一体化させ、城壁も一本化して強化した。[[隊商宿]]や[[水汲み水車|水車]]、[[浴場]]を建設した。

ところで[[1031年]]の[[後ウマイヤ朝]]崩壊後、[[イベリア半島]]のイスラム勢力は分裂、抗争するようになり、[[カスティーリャ王国]]や[[アラゴン王国]]に圧迫されていた。[[1086年]]、[[セビリア|セビリャ]]の[[タイファ|諸侯]]ムータミドの救援要請に応じて、ユースフは出兵、カスティーリャの[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]と[[サグラハスの戦い|サラカにおいて会戦]]を行なった。ムラービト軍の太鼓の音と隊列に恐れをなした[[カトリック教会|カトリック]]連合軍は敗走した。しかし、ユースフがモロッコに帰還すると、イスラム諸侯国は再び抗争を繰り返して、カトリック諸国につけ入られるばかりだったので、[[1090年]]にセビリャからの再度の救援要請を契機に、アンダルシアのイスラム諸侯国は真の信仰に根差していない、本当の聖戦を完遂するには、ムラービト朝自体の支配がなければならないという動機も手伝い、[[1091年]]にかつての同盟国、[[コルドバ]]とセビリャを占領、セビリャのアルムスタミドを追放、[[1102年]]に[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]を確保した。[[1106年]]にユースフが亡くなってからも、[[1110年]]に[[サラゴサ]]を占領、[[1118年]]に[[トレド]]の包囲とその勢いを示した。
 
== ムラービト朝の衰退と滅亡 ==
しかしユースフが亡くなると、これを継いだアリー・イブン・ユースフ(在位:[[1107年]] - [[1142年]])は、父王の在世中に政治にも携わっていたことから、将来を嘱望されていたが、[[セウタ]]で生まれアンダルシアのイスラム文化に染まっていた彼には、父王のような指導力はなく、法学者たちに利用され、祈りと読書に部屋にこもりがちになった。強力な指導者のいないムラービト軍は、[[1118年]]にアラゴン王国にサラゴサを奪われ、カスティーリャの[[アルフォンソ7世]]にも遠征軍を送られて、後退を余儀なくされていた。

この情勢で、最初は、ムラービト朝の支配を歓迎したアンダルシアのイスラム教徒住民も、ムラービト軍の暴行や文化の無理解に嫌気が差していたため、不満が爆発、反ムラービト運動が起こり、コルドバ、ムルシア、バレンシアで反乱が起こった。またモロッコ国内でもムワッヒド運動が起こっており、アンダルシアのイスラム諸侯国は、ムワッヒド勢力と通じるようになり、ターシュフィーン・イブン・アリー(在位:[[1142年]] - [[1146年]])、次いでイスハーク(在位:[[1146年]] - [[1147年]])の時、首都マラケシュは陥落し、ついに[[1147年]]、[[ムワッヒド朝]]に滅ぼされた。
 
== 文化 ==
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== 参考文献 ==
{{Commonscat|Almoravid dynasty}}
* 那谷敏郎『紀行 モロッコ史』新潮選書、1984年 ISBN 4-10-600260-4
* 佐藤次高編『西アジア史I(新版世界各国史8)』山川出版社、2002年 ISBN 4-634-41380-9