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'''中川 忠英''' (なかがわ ただてる、[[宝暦]]3年([[1753年]])-[[文政]]13年([[1830年]]9月))は[[江戸時代]]の[[旗本]]。[[中川忠易]]の5男。幼名は勘三郎。字は子信。号は駿臺。官途は、従五位下飛騨守([[長崎奉行]]になった折りに叙任)。正室は[[安藤信尹]]の娘。4男には[[小栗忠清]]の養子となった[[小栗忠高|忠高]]がおり、その嫡男が[[小栗忠順]]。[[遠山景晋]]、[[石川忠房]]と共に文政年間の能吏として称えられた
 
== 経歴 ==
 
 
[[明和]]4年([[1767年]])家督(石高1000石)を継ぎ、小普請支配組頭となり、[[天明]]8年([[1788年]])[[目付]]となり、[[布衣]]を許される。[[寛政]]7年([[1795年]])2月より[[長崎奉行]]を拝命し、[[寛政]]9年([[1797年]])2月までこれを務める。長崎にて、手附出役の[[近藤重蔵]]らに命じて、唐通事(中国語通訳官)を動員して、清の江南や福建などから来た商人たちから風俗などを聞きこれを図説した『[[清俗紀聞]]』を編纂させて、これを監修する。出版されたのは、忠英が江戸に帰ってからである。