「マリア・カロリーナ・ダズブルゴ」の版間の差分

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当初は[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]との縁組みが考えられていたが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1751-1767)|マリア・ヨーゼファ]]が1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリの[[フェルディナンド1世_(両シチリア王)|フェルディナンド4世]]<ref>ナポリ王としてはフェルディナンド4世で、シチリア王としては3世。両シチリア王としては1世となる</ref>へ嫁ぐことになった。突然の結婚に、同じ部屋で暮らし非常に親しかった妹[[マリー・アントワネット|マリア・アントニア]](マリー・アントワネット)は大変悲しんだという。
 
粗暴で暗愚な夫に代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉から解き放ち、前国王時代から政治を牛耳っていた[[ベルナルド・タヌッチ|タヌッチ]]を追放、兄[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]にならい[[士官学校]]を作り、軍隊の再編をしている。また子にも多く恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリア・アントニアではなく{{要出典範囲|マリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている|date=2010年5月30日 (日) 01:17 (UTC)}}。
 
[[フランス革命]]が起こると、革命側の市民たちに同情を寄せていたが、1793年のルイ16世と妹マリー・アントワネットの処刑後、態度を硬化させた。それまではナポリ国内における[[フリーメイソン]]活動にも力を貸しており、ナポリには女性が加入できる団体もあったという。マリア・カロリーナとフェルディナンドは震え上がり、彼女は妻に甘い夫を動かしてナポリ・シチリア合同軍を組織させ、フランス革命軍との戦いに転じた。