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▲{{北朝鮮の事物|
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▲title=朴憲永|
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alphabet-type=[[英語]]表記|▼
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▲hangeul=박헌영|
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▲hiragana=ぼくけんえい|
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▲katakana=パク・ホニョン|
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'''朴憲永'''(パク・ホニョン、{{lang|ko|박헌영}}、[[1900年]] - [[1955年]][[12月15日]]以降)は、[[朝鮮]]の[[独立運動家]]・抗日鬪士・[[革命家]]・[[政治家]]。朝鮮の[[共産主義]]運動黎明期以来の活動家で[[エスペラント|エスペランティスト]]。[[日本語]]読みは「ぼくけんえい」。▼
▲'''朴憲永'''(パク・ホニョン、{{lang
== 来歴 ==▼
[[忠清南道]][[礼山郡|礼山]]出身。[[1919年]]に[[三・一独立運動]]に参加。日本側の官憲に目を付けられ、[[上海市|上海]]に[[亡命]]する。上海では高麗共産党イルクーツク派に参加し、[[1922年]]に、[[モスクワ]]で開催された極東諸民族大会に参加した。[[1925年]]には朝鮮に帰国し逮捕、投獄される。出獄後、[[東亜日報]]の[[記者]]を務める傍ら、[[朝鮮共産党#第1次朝鮮共産党|第1次朝鮮共産党]]の創建メンバーとなった。その際、高麗共産青年会を組織して、責任秘書となった。同1925年末、第1次朝鮮共産党事件によって逮捕されるが、精神錯乱を装って病気保釈され、[[ソビエト連邦|ソ連]]に逃亡、モスクワ共産大学で学んだ。[[1932年]]、上海にて逮捕。[[1939年]]に出獄し、[[光州広域市|光州]]の煉瓦工場の労働者として身分を隠しながら、地下組織「ソウル・コム」グループを指導した。▼
[[日本語]]読みは「ぼくけんえい」。
[[太平洋戦争]]における[[大日本帝国|日本]]の敗戦を迎えると植民地時代の民族運動家は一斉に組織活動を開始した。植民地時代末期まで運動を継続していた者の多くは社会主義者だった。社会主義者たちは無数の組織を作り上げた。▼
米ソ両軍の[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|軍政]]下に置かれると朴憲永は[[朝鮮共産党]]再建準備委員会を結成した。この前に、十数名の共産主義者によって朝鮮共産党が結成されていた。彼らは[[ソウル特別市|ソウル]]・長安ビルに[[看板]]を掲げたことから'''長安派共産党'''と呼ばれた、朴憲永による共産党は'''再建派共産党'''と呼ばれた。長安派は朴憲永を指導者に迎えようとしたが、朴憲永はこれを拒否し、長安派に解散を求めた。激しい論争の末、長安派は解党し再建派に加わるに至った。▼
=== 生い立ち ===
▲[[忠清南道]][[礼山郡|礼山]]
=== 大東亜戦争後 ===
▲[[
▲米ソ両軍の[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|軍政]]下に置かれると、朴憲永は[[朝鮮共産党]]再建準備委員会を結成した。この前に、十数名の共産主義者によって朝鮮共産党が結成されていた。彼らは[[ソウル特別市|ソウル]]・長安ビルに[[看板]]を掲げたことから'''長安派共産党'''と呼ばれた、朴憲永による共産党は'''再建派共産党'''と呼ばれた。長安派は朴憲永を指導者に迎えようとしたが、朴憲永はこれを拒否し、長安派に解散を求めた。激しい論争の末、長安派は解党し再建派に加わるに至った。
朴憲永がソウルにおける共産主義者を統合するまでに、[[平壌]]では朝鮮共産党北部分局を発足させたため、朴憲永は南半部におけるリーダーとなった。のち、朝鮮共産党北部分局は名称を北朝鮮共産党と改める。この段階では、朝鮮共産主義のみならず、朝鮮における政治運動の主流はすべてソウルでの活動にあるとみなされていた。
=== 朝鮮戦争 ===
その後同党は他の左派・共産主義政党と合併し「[[南朝鮮労働党]]」('''南労党''')を結成。しかし[[アメリカ合衆国|アメリカ]]をバックとする[[大韓民国|韓国]]政府の弾圧を受け、[[1946年]]の夏に
[[北朝鮮労働党]]と南朝鮮労働党が合併し、[[朝鮮労働党]]が成立するとその中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任。その後は副首相や外相を務めた。[[甲山派]]を除く国内系共産主義者たち、とりわけ朴憲永に代表される南朝鮮労働党系(以下、南労党派)と、金日成派(満州派)とは長く対立していた。[[朝鮮戦争]]が事実上、中国人民義勇軍司令官・[[彭徳懐]]の指揮によって遂行されたことで金日成は国内の政敵に集中できる環境にいた。朝鮮戦争が膠着状態に陥ったころから、金日成は党の掌握に専念し、政敵の追い落としを準備していたと考えられている。
=== 金日成との闘争 ===
朝鮮戦争が失敗に終わると、その責任を巡って南労党派と[[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]](金日成派)との対立が激化した。朴憲永を押し立てた南労党派は組織的に金日成に挑戦した。[[1953年]]の初頭に南労党派は[[クーデター]]を企てたとされている<ref>徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、147頁。クーデタ計画が実際にあったのかどうか、真偽のほどは明らかではない。ただし、戦争の混乱のなかで南労党派が自前の遊撃隊を組織しはじめていたのはたしかである
=== 逮捕と見せしめ裁判 ===
▲朝鮮戦争が失敗に終わると、その責任を巡って南労党派と[[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]](金日成派)との対立が激化した。朴憲永を押し立てた南労党派は組織的に金日成に挑戦した。[[1953年]]の初頭に南労党派は[[クーデター]]を企てたとされている<ref>徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、147頁。クーデタ計画が実際にあったのかどうか、真偽のほどは明らかではない。ただし、戦争の混乱のなかで南労党派が自前の遊撃隊を組織しはじめていたのはたしかである。</ref>。朴憲永以下南労党派はクーデタ容疑で一斉に逮捕された。同[[1953年]]8月には大々的な見せしめ裁判が展開された。ところが、[[李承ヨプ (政治家)|李承燁]]・[[李康国]]・[[林和]]・[[裵哲]]ら南労党派の有力者が問われたのはクーデタ未遂容疑ではなかった。彼らは、「米帝の[[スパイ]]」「政権転覆・南労党派のクーデター陰謀」「戦時50万蜂起流言飛語」という名分のもと、朝鮮戦争を失敗に導いたことを罪状として処刑された<ref>[[小此木政夫]](編著)『北朝鮮ハンドブック』講談社、1997年、148-149頁。このとき、[[延安派]](延安で中国共産党員として活動した朝鮮人たち)の有力者で、名高い軍人であった[[武亭]]も戦争の失敗の責任をとらされて追放された。</ref>。
朴憲永以下南労党派はクーデタ容疑で一斉に逮捕された。同[[1953年]]8月には大々的な見せしめ裁判が展開された。ところが、[[李承ヨプ (政治家)|李承燁]]・[[李康国]]・[[林和]]・[[裵哲]]ら南労党派の有力者が問われたのはクーデタ未遂容疑ではなかった。彼らは、「米帝の[[スパイ]]」「政権転覆・南労党派のクーデター陰謀」「戦時50万蜂起流言飛語」という名分のもと、朝鮮戦争を失敗に導いたことを罪状として処刑された<ref>[[小此木政夫]](編著)『北朝鮮ハンドブック』講談社、1997年、148-149頁。このとき、[[延安派]](延安で中国共産党員として活動した朝鮮人たち)の有力者で、名高い軍人であった[[武亭]]も戦争の失敗の責任をとらされて追放された。</ref>。
=== 最期 ===
朴憲永だけが他の被告と分離され、裁判も遅れて開始され
== 脚注
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{{DEFAULTSORT:はくほによん}}
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