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1972年7月、財務相に転じた[[ヘルムート・シュミット]]の後任として国防相に転じる。彼は[[ドイツ連邦軍]]の軍人や国防省職員から敬愛され、「兵士の父」というあだ名を奉られることになる。就任直後の1972年9月11日、正体不明の航空機が西ドイツ領空に侵入し、国防相として迎撃するか否かの対応を迫られた。この飛行機は前日に終了した[[ミュンヘンオリンピック]]が行われていた[[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン]]上空にさしかかり、オリンピック期間中に[[イスラエル]]選手団に対して行われた[[ミュンヘンオリンピック事件|テロ事件]]のこともあり、難しい対応を迫られた。彼は待つことに決したが、この選択は正しく、実はこの航空機は乗客100人を乗せた[[フィンランド航空]]旅客機であり、自機の電子機器が故障したことに気づいていなかったのである。
 
1973年7月、前任者シュミットが推進した[[ミュンヘン]]と[[ハンブルク]]での連邦国防大学設置を正式に発令。これによりドイツ連邦軍は士官教育の一環として軍事研究が可能になった。同年、ドイツ連邦軍改革を連邦議会に提示し、陸軍は三個旅団が増設された。1975年にはドイツ連邦軍に初めて医療分野に限って女性の士官任用に道を開いた。1976年、[[ナチス・ドイツ]][[ドイツ空軍|空軍]]の英雄である[[ハンス・ウルリッヒ・ルーデル]]を空軍の会合に招いてルーデルの過去をSPDの重鎮政治家[[ヘルベルト・ヴェーナー]]の[[ドイツ共産党]]での活動歴になぞらえて正当化した将軍二人を、レーバーは退役させた。この人事に保守系野党が反対して反対動議を提出したものの、連邦議会における僅差の議決で承認された([[ルーデルスキャンダル]])
 
1978年、連邦軍の[[ドイツ軍事保安局|防諜課]]が彼の女性秘書を[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]][[シュタージ|国家保安省]]の協力者と疑い、その自宅を許可なく[[盗聴]]していたことが発覚。レーバー自身は関与していなかったが、シュミット首相の反対にもかかわらず2月16日に責任を取って国防相を辞任した。のちにこの秘書は無実であると判明した。この事件は雑誌による暴露で発覚したもので、同時に西ドイツ[[共産主義]]者連盟に対する盗聴も報じられたが、これについては彼は沈黙した(関与していなかったとも、また合法と思っていたともいう)。のちにこれは違法であると判断されている。なおレーバーは1969年に自分の選挙区の選対事務局長[[ギュンター・ギヨーム]]を[[連邦首相府 (ドイツ)|首相府]]スタッフに推薦し、ギヨームはのちにブラント首相の個人秘書になるが、実は東ドイツの送り込んだスパイであることが判明し、ブラントが辞任する事件に発展している(ギヨーム事件)。この事件はそうした世相の中で起こったものであった。