「ムハンマド・ビン・トゥグルク」の版間の差分

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'''ムハンマド=ビン=トゥグルク'''(?(? - [[1351年]]、在位:[[1325年]] - 1351年)は、[[インド北部]](一時的に[[インド]]全土)を支配した[[トゥグルク朝]]の第2代君主。
 
== 生涯 ==
初代君主・[[ギャースッディーン=トゥグルク]]の子。父と共に多くの戦場に参加し、有能な軍人として名を馳せた。父が1325年に不慮の死を遂げると、後継者として即位する。だが、英主と知られた父の死は敵国を蠢動させ、[[1327年]]には[[チャガタイ・ハン国]]軍が来襲する。この来襲では[[デリー]]北部にまで侵食されるほどの大事となったが、[[ジェーラムの戦い]]でチャガタイ・ハン国を撃破し、さらにこれに呼応した周辺諸国をも滅ぼした上、現在の[[アフガニスタン]]や[[カズニ]]地方まで勢力を拡大するという快挙を行なった。
 
ところがその後、一族や重臣の諫言を無視して[[デカン高原]]の西にあるデーヴァギル(遷都後にダゥラタバード改名)に遷都を強行する。さらに通貨改革を実行して逆に偽造通貨が流行して物価の大混乱を招いて失敗した。[[1334年]]には周囲の反対が根強かったためにデリーに還都するが、数年にわたって中心地で無くなったデリーはすっかり荒廃しており、この復興に相当の資金をかけることになった。また、どれだけ本気だったのかは不明だが、[[元 (王朝)|元]]に対する遠征を計画している。

このように数々の内政での失敗と大成功はしたが大規模な軍事行動による軍費の増大は財政難と人心の離反を招き、新たな支配地での領主らの反乱を招いた。[[1336年]]にはサンガマ家の[[ハリハラ]]による[[ヴィジャヤナガル王国]]の独立、[[1347年]]にデカン高原のグルバルガでアフガン人傭兵出身の地方長官である[[アラーウッデイーン=ハサン]]が独立して[[バフマニー朝]]を建てるに及んで、デカン地方から南インドの版図を失うことになったのである

ムハンマドはこれらの反乱を鎮圧するために遠征を繰り返したが、これがかえってさらなる財政難を招く。また、窮余の一策として農地改革を行なったが、これも飢饉が起こってり、かえって生産力低下を招くという体たらくとなった。
 
1351年、反乱鎮圧で遠征していたときに陣中で没した。従弟の[[フィーローズ=シャー=トゥグルク]]が後を継いだ。
 
== エピソード ==
*史料ではムハンマドのことを「天才か狂人か」と評している。軍事では初期で短期間に大いに成功してほぼインド全土を統一した上に国外にまで領土を拡大し、多くの文人を保護して自らも数ヶ国語の語学力を誇る天才だったが、父の不慮の死(ムハンマドの謀殺?)?)や遷都の強行などが狂人として挙げられているのではないかと思われる。
*内治がことごとく失敗した原因としてムハンマドが無能だったことと官吏や参謀に有能な人材が枯渇していたことが挙げられる。これはムハンマドが即位後に父時代の功臣([[サイフ=ウッディーン=アイバー]])らを殺戮したのが一因している。
*ムハンマドの失政で王朝は崩壊寸前だったが、幸運にも後継者のフィーローズ=シャー=トゥグルクは政治の天才で、彼の時代にトゥグルク朝は再び全盛期を迎えた。
 
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*「中世インドの歴史」(山川出版社)
 
{{先代次代|[[トゥグルク朝]]<br />の君主|1325年 - 1351年|[[ギャースッディーン=トゥグルク]]|[[フィーローズ=シャー=トゥグルク]]}}
 
{{DEFAULTSORT:むはんまとひんとうくるく}}
[[Category:トゥグルク朝の君主]]
[[Category:インドの君主]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:1351年没]]