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'''織田 信友'''(おだ のぶとも、<!--[[永正]]13年([[1516年]])-->生年不詳
== 経歴 ==
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信秀の死後は[[織田信行]](信勝)の家督相続を支持し、信秀の後を継いだ[[織田信長]]と対立する。信長の家臣の[[鳴海城]]主[[山口教継]]の謀反に乗じ、[[萱津合戦]]を起こすも、[[守山城 (尾張国)|守山城]]の[[織田信光]]に支持された信長に敗れ、家臣坂井甚介を失う。さらに信長暗殺計画を企てたが、事前に斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門に知られて、信長に密告されたために失敗し、家臣の那古野弥五郎の内通もあり、かえって清洲城に焼き討ちを受けるなど追い込まれていく。
天文23年([[1554年]])、信友は[[代官|小守護代]]と呼ばれた家老の坂井大膳と図り、守護斯波氏の家臣の大部分が義統の子の[[斯波義銀|義銀]]に従って城外に出かけた隙に義統を[[暗殺]]した。義銀は信長を頼り逃亡した。翌
清洲織田氏は断絶、信行も[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に信長に謀殺され、岩倉織田氏(織田伊勢守家)で尾張上
== 関連項目 ==
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