削除された内容 追加された内容
勅撰集入集数、性格、出典の脚注化
人物
14行目:
冷泉天皇に狂気の病がある以上は長い在位は望めず、弟皇子から早急に東宮を定めることになった。同母弟で年長の為平親王が有力だったが、東宮には守平親王と決した。これは為平親王の妃が左大臣源高明の娘であり、実頼と師尹が源氏の高明が将来外戚となることを恐れたためであった。[[安和]]2年([[969年]])失意の高明に突如謀反の嫌疑がかけられ失脚し、[[大宰府]]へ流される事件が起きた([[安和の変]])。実頼はこの陰謀の首謀者とされているが、弟の師尹または師輔の子の伊尹、兼家を擬定する説もある。
 
同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位した(円融天皇)。新帝が未だ幼年であったため実頼は摂政に任じられる。だが、翌天禄元年(970年)に病に倒れ<ref>「あやしう風起りがちにて」(『栄花物語』巻第一,月の宴)</ref>、5月薨去。享年71。[[正一位]]が追贈され、[[尾張国]]に封じ、清慎公と諡号された。
 
実頼は摂関を歴任しているものの天皇との外戚関係を結ぶことができず、自らを[[揚名官]](名前だけの名誉職)の関白という意味で「揚名関白」と称している。また、『[[栄花物語]]』が、[[藤原師輔|師輔]]を、「一(実頼)苦しき二の人(師輔)」と実頼とを比較して評していることから、実頼の政治的実権が乏しく、[[村上天皇]]朝においては師輔、[[冷泉天皇|冷泉]]・[[円融天皇]]朝においては両天皇と外戚関係にあった師輔の子[[藤原伊尹]]・[[藤原兼家]]等が実権を掌握したと捉えられている。しかし、[[村上天皇]]朝においては、[[太政官符]]・[[宣旨]]発給の責任者である[[上卿]]の回数が師輔と較べて多いことや、[[冷泉天皇]]即位式の際、通常[[大極殿]]で行うべきところを、天皇御悩のために[[紫宸殿]]挙行に変更させたことなどを考慮すると、実頼の政治的実権は乏しかったとするのは穏当ではなく、更に議論が必要であろう。
== 人物 ==
[[和歌]]に秀で、歌集『清慎公集』があるほか、『[[後撰和歌集]]』(9首)以下の[[勅撰和歌集]]に34首が採録されている<ref>『勅撰作者部類』</ref>。ほかに[[笙]]・[[筝]]の名手として知られ、特に筝は[[醍醐天皇]]より学んでいる。このように趣味は豊富であったが、一方で、心の奥底が深く気難しい性格であったという<ref>『[[栄花物語]]』巻第一,月の宴</ref>。
 
== 人物 ==
[[有職故実]]に詳しく、父忠平の教命を受け(忠平の教命は、実頼が『小野宮故実旧例』として纏めた)、朝廷儀礼のひとつである小野宮流を形成した。なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。
 
実頼はまた、日記『清慎公記』(『水心記』ともいう)を著していたことが『[[小右記]]』等の逸文によって知られる。なお、[[藤原公任]]が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまい、元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の[[藤原実資]](公任・実資とも実頼の孫)の憤激を買っている<ref>『小右記』寛仁4年8月18日条</ref>。その部類記も[[長和]]4年([[1015年]])の[[藤原教通]]邸焼亡の折に焼失したため現存していない。また、同じく公任の『[[北山抄]]』に度々引用されている「私記」も『清慎公記』のことと考えられているなお、実頼は父・忠平の『[[貞信公記]]』に注釈を加えた際に自己の記述も「私記」と記しているが、『北山抄』引用の「私記」には忠平が第三者として登場することから、実頼自身は『清慎公記』の事も「私記」と称していたと考えられている
 
[[和歌]]に秀で、歌集『清慎公集』があるほか、『[[後撰和歌集]]』(9首)以下の[[勅撰和歌集]]に34首が採録されている<ref>『勅撰作者部類』</ref>。ほかに[[笙]]・[[筝]]の名手として知られ、特に筝は[[醍醐天皇]]より学んでいる。このように趣味は豊富であったが、一方で、心の奥底が深く気難しい性格であったという<ref>『[[栄花物語]]』巻第一,月の宴</ref>
 
実頼は多才で趣味も豊富である上に、きちんとした性格で人の模範として引かれるほどであった<ref>『大鏡』太政大臣実頼 清慎公</ref>。一方で、心の奥底が深く気難しい性格であったという評価もある<ref>『[[栄花物語]]』巻第一,月の宴</ref>。
実頼は摂関を歴任しているものの天皇との外戚関係を結ぶことができず、自らを[[揚名官]](名前だけの名誉職)の関白という意味で「揚名関白」と称している。また、『[[栄花物語]]』が、[[藤原師輔|師輔]]を、「一(実頼)苦しき二の人(師輔)」と実頼とを比較して評していることから、実頼の政治的実権が乏しく、[[村上天皇]]朝においては師輔、[[冷泉天皇|冷泉]]・[[円融天皇]]朝においては両天皇と外戚関係にあった師輔の子[[藤原伊尹]]・[[藤原兼家]]等が実権を掌握したと捉えられている。しかし、[[村上天皇]]朝においては、[[太政官符]]・[[宣旨]]発給の責任者である[[上卿]]の回数が師輔と較べて多いことや、[[冷泉天皇]]即位式の際、通常[[大極殿]]で行うべきところを、天皇御悩のために[[紫宸殿]]挙行に変更させたことなどを考慮すると、実頼の政治的実権は乏しかったとするのは穏当ではなく、更に議論が必要であろう。
 
== 逸話 ==