「笑福亭枝鶴 (3代目)」の版間の差分

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'''3代目 笑福亭 枝鶴'''(3だいめ しょうふくてい しかく、[[1894年]] - [[1946年]][[5月13日]])は、[[上方噺家]]。本名: 山中瀧之助。[[享年]]52。
 
初め[[桂文人]]([[桂文枝#3代目|3代目桂文枝]]門下)の弟子となり文輔を名乗る。師の没後、[[1914年]]頃に[[桂花丸|初代桂花丸]](後の[[桂花團治#初代|初代桂花團治]])門下で花三郎となり、[[1915年]]頃に師の花團治への改名を機に2代目花丸となる。活動は端席や旅興行が多く寄席にはほとんど出ていたなかった。人柄が腕が優れたことなどの理由で[[翁家さん馬|7代目翁家さん馬]]([[桂文治 (8代目)|8代目桂文治]])に可愛がら一時[[1917年]]頃にさん馬の門下になり翁家さん勝、[[1927年]]頃に旅興行の際、名前が[[天狗連|素人連]]の名前のようだということで、旅先だけのつもりで桂花柳を名乗るが、そのまま名乗り続けることとなる。一時期[[桂春輔#初代|初代桂春輔]]とのコンビで[[軽口]]を披露していた時期もあるが[[1943年]]12月に[[笑福亭枝鶴|3代目笑福亭枝鶴]]を襲名。[[笑福亭松鶴 (5代目)|5代目笑福亭松鶴]]の「楽語荘」同人となり、[[桂米之助|2代目桂米之助]](後の[[桂米團治 (4代目)|4代目桂米團治]])と共に、将来を嘱望された。
 
細かく技巧的な芸風で、器用だが線が細く、こじんまりとした小さな寄席向きだとも評された。十八番は『立ち切れ線香』、『三枚起請』、4代目桂米團治の作の『[[代書]]』を好んで演じていた。[[新作落語|新作]]も物にし、『上方はなし』第46集には、4代目桂米團治の『代書』と共に、花柳の『豆炭』が掲載されている。また[[声色]]も得意とした。