「伊達実氏」の版間の差分
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初めは'''伊達敏清'''と名乗ったが、[[延宝]]5年([[1677年]])1月に中村姓を下賜されると、名を'''中村宗氏'''と改めて別家を興し、一家の家格を与えられ100貫(1,000石)を分知された。
[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])1月25日、亘理伊達氏第4代当主・[[伊達基実]]が跡継ぎの無いまま急死すると、本藩は基実の従弟・[[亘理元篤|藤吉]]を跡取りとし、知行は1,000貫(10,000石)を残して召し上げるという裁定を下した。しかし基実の母・[[清霄院]]と亘理家中はこの裁定に猛反発して亘理領の完全相続を要求し、同時に藤吉の父である涌谷領主[[伊達宗元]](清霄院の兄)が幼少を理由に入嗣辞退を申し入れたこともあり、宗氏を基実の妹・虎乙の婿として当主に迎えたいと願い出
享保2年([[1717年]])7月8日死去。享年64。[[昭和]]49年([[1974年]])、[[大雄寺 (亘理町)|大雄寺]]の実氏[[廟|霊屋]]が、[[伊達実元|実元]]霊屋・[[伊達成実|成実]]霊屋と共に亘理町より文化財指定を受けた。
== 系譜 ==
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{{先代次代|[[亘理伊達氏]]|第5代:1682 -
{{DEFAULTSORT:たて さねうし}}
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