「百武源吾」の版間の差分

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30期の人数について脚注
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海軍を追われた百武は[[信濃川]]沿いの村に隠居して悠々自適の生活をしていたが、[[九州帝国大学]]工学部が新総長を学外の第一人者から招聘する意向を固め、海軍経験者の中から百武を候補に指名した。[[学習院|学習院長]]経験者である[[野村吉三郎]]大将から説得され、百武は学長選挙に立候補し、昭和20年([[1945年]])3月から11月まで学長を勤めた。教官を敬わない学生の風紀を改めるべく海軍式の教育を普及させた。また、陸軍省と[[文部省]]が医学生の徴兵を猶予する協定を結んでいたにもかかわらず、医学生も[[根こそぎ動員]]していた[[西部軍 (日本軍)|西部軍]]に対して直談判し、徴兵された医学生を大学に復帰させた。
 
九州帝国大学総長を辞職したのちは、再び悠々自適の生活に戻った。昭和51年(1976年)に死去したが、兵学校30期生186名<ref>義済会員名簿よれば、病のため卒業試験に出席できなかった津留雄三を含めて187名。</ref>の最後を飾る大往生だった。
 
== 年譜 ==