「任那日本府」の版間の差分

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=== 第二次大戦前 ===
[[戦前|第二次世界大戦]]以前の日本における伽耶地方の研究については、当時の併合政策を正当化しようとする姿勢から{{要出典}}、『日本書紀』に現れる任那日本府を倭国(大和政権)が朝鮮半島南部を支配するために設置した出先機関であるとする前提に立つものであった。考古学的な研究についても、研究そのものに朝鮮人の参画が認められていなかったこともあり{{要出典}}、まず任那日本府の解釈に沿って日本府を合理的に説明しようとする姿勢から抜け切ることができなかった{{要出典}}。そのような解釈は[[明治]]期の[[那珂通世]]、[[菅政友]]らの研究から見られ、[[津田左右吉]]を経て戦後に[[末松保和]]『任那興亡史』において大成された。
 
この時代の認識では、任那日本府の淵源を『日本書紀』神功紀にある「[[屯倉|官家]]」に求め、任那日本府は伽耶地方=任那地方を政治的軍事的に支配したとするものであった。そのため[[三韓征伐]]のモデルとなった朝鮮半島への出兵を[[4世紀]]半ば([[神功皇后]]49年([[249年]])を[[干支]]2巡繰り上げたものと見て[[369年]]と推定する)とし、以降、当地域は倭王の直轄地であったとした。また、任那日本府は当初は臨時の軍事基地に過ぎなかったが、やがて常設の機関となったとみられていた。その後、[[高句麗]]や新羅が百済北部を侵すようになると、百済は執事の功績を賞賛し、大和に援軍を求めた。[[554年]]、百済が新羅に敗れて[[聖明王]]が殺され、[[562年]]には任那全土が新羅に奪われるに至り、日本府は滅亡したとされる。
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[[宋書倭国伝]]の記述では451年、[[宋朝]]の文帝は、倭王済([[允恭天皇]]に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと記述している。また、478 年、宋朝の[[順帝]]は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述しているため、[[宋朝]]は倭が朝鮮半島南部に大きな影響力を持ち、事実上支配していると認識していたことを示している。
 
=== 第二次大戦後 ===
[[戦後になって|第二次世界大戦後]]1970年代までは、古代の日本が4世紀後半から朝鮮南部を支配して任那日本府を設置したという見解は日本学界の通説であった<ref name=tanak>田中(2008)</ref><ref name=tanaka>田中(2009)</ref>。しかし、1963年に北朝鮮の金錫亨の論文、「三韓三国の日本列島内の分国について」が日本学界に大きな衝撃を与えた<ref name=tanak />。金の考えは一般に「[[分国論]]」と呼ばれ、簡潔にいえば朝鮮半島の三国が日本列島内に植民地を持っていたという説である<ref name=tanak/>。分国論自体は日本学界で支持されなかったが、当時の日本学界の通説である「任那支配説」と完全に相反するため、注目の的となった<ref name=tanaka />。一部の研究者は朝鮮ナショナリズムの生み出したものとして価値を認めなかったが、戦前からの通説を再検証すべきだという主張が大きくなった<ref name=tanaka />。その後、古代の日本史、日朝関係史再検証の動きは活発になっていき、今日では70年代までの通説に従って日朝関係を把握する考え方は殆ど姿を消している<ref name=tanaka />。
 
=== 1970年代~1980年代 ===
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[[Category:朝鮮の歴史]]
[[Category:古墳時代]]
[[Category:飛鳥時代の外交]]
[[Category:日朝関係史]]