「任那日本府」の版間の差分
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=== 第二次大戦
[[戦前|第二次世界大戦前]]
この時代の認識では、任那日本府の淵源を『日本書紀』神功紀にある「[[屯倉|官家]]」に求め、任那日本府は伽耶地方=任那地方を政治的軍事的に支配したとするものであった。そのため[[三韓征伐]]のモデルとなった朝鮮半島への出兵を[[4世紀]]半ば([[神功皇后]]49年([[249年]])を[[干支]]2巡繰り上げたものと見て[[369年]]と推定する)とし、以降、当地域は倭王の直轄地であったとした。また、任那日本府は当初は臨時の軍事基地に過ぎなかったが、やがて常設の機関となったとみられていた。その後、[[高句麗]]や新羅が百済北部を侵すようになると、百済は執事の功績を賞賛し、大和に援軍を求めた。[[554年]]、百済が新羅に敗れて[[聖明王]]が殺され、[[562年]]には任那全土が新羅に奪われるに至り、日本府は滅亡したとされる。
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[[宋書倭国伝]]の記述では451年、[[宋朝]]の文帝は、倭王済([[允恭天皇]]に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと記述している。また、478 年、宋朝の[[順帝]]は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述しているため、[[宋朝]]は倭が朝鮮半島南部に大きな影響力を持ち、事実上支配していると認識していたことを示している。
=== 第二次大戦後 ===
[[戦後
=== 1970年代~1980年代 ===
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[[Category:朝鮮の歴史]]
[[Category:古墳時代]]
[[Category:飛鳥時代の外交]]
[[Category:日朝関係史]]
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