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{{ infobox 教皇
| 日本語名 = グレゴリウス13世
| タイトル = 第226代 [[ローマ教皇]]
| 画像 = [[ファイル:Gregory XIII.jpg|200px]]
| 画像説明 =
| 就任 = [[15921572年]][[153014日]]
| 離任 = [[16051585年]][[34310日]]
| 先代 = [[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]
| 次代 = [[レオ11シクストゥス5世 (ローマ教皇)| シクストゥス5世]]
| 司祭 =
| 司教 =
| その他 =
| 本名 = ウーゴ・ブオンコンパーニ<Br />(Ugo Buoncompagni)
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1502|1|7|死去}}
| 生地 = {{PAP}}、[[ボローニャ]]
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| 親 =
| 妻 =
| 子 = [[ジャコモ・ブオンコンパーニ|ジャコモ]]
| 子 =
| 母校 =
| 署名 =
| 曖昧 = グレゴリウス
}}'''グレゴリウス13世'''(Gregorius XIII,[[1502年]][[1月7日]] - [[1585年]][[4月10日]])は、[[教皇|ローマ教皇]](在位,[[1572年]] - [[1585年]])。本名は'''ウーゴ・ブオンコンパーニ'''(Ugo Buoncompagni)。学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積していた[[ユリウス暦]]を廃し、[[グレゴリオ暦]]とよばれる新暦を採用したことでも有名。
 
== 生涯 ==
ウーゴは[[ボローニャ]]生まれ。[[ボローニャ大学]]で法学を修め、[[1530年]]に学位を得た。その後、同大学で法学の教官として教壇に立っていた。生徒の中には[[カルロ・ボッロメーオ]]や[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (枢機卿)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]などがいた。36歳にして教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]によってローマへ招かれ、教会法関係の業務についた。[[枢機卿]]にあげられたのは教皇[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]の時代であり、[[トリエント公会議]]にも参加している。
 
[[1572年]]5月、教皇[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]の死去を受けておこなわれた[[コンクラーヴェ]]においてボンコンパーニ枢機卿が新教皇に選ばれ、グレゴリウス13世を名乗った。教皇位についた彼がまず全精力を傾けて取り組んだのは教会改革であった。特にトリエント公会議の決議の実施を徹底させ、不在[[司教]]が問題になっていたことを受けて司教や枢機卿は自らの担当地域に住むことを徹底させた。さらに公会議後に実施されることが決まっていた[[禁書目録]]の作成を実行するため委員会を任命している。
 
グレゴリウス13世治世の事跡でもっとも有名なものは何と言っても「グレゴリオ暦」として知られる新暦の採用である。ユリウス暦のずれはすでに数百年前に[[ロジャー・ベーコン]]によっても指摘されていたが、トリエント公会議において教皇庁への委託業務として新暦の研究が決定されていた。これを受けて教皇はこの業務のためシルレト枢機卿を長とする委員会を設立して検討させた。委員会の中には当代随一の天文学者であったドイツの[[イエズス会]]員[[クリストファー・クラヴィウス]]も含まれており、時代の先端をゆく科学的事業であった。この委員会の研究と決定を受けて1582年2月に暦の切り替えの勅令が発せられ、暦の切り替えは[[1582年]]10月におこなわれることになった。まず[[カトリック教会|カトリック]]の国である[[イタリア]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[ポーランド]]などで採用され、[[ユリウス暦]]の1582年10月5日が10月15日に改められた。
 
[[プロテスタント]]諸国は当時、暦であってもカトリックの影響力を受けるのは不本意としてグレゴリオ暦を受け入れなかった。また、[[正教会]]にあっては教会暦の変更は[[奉神礼]]の日時に多大な影響を被るものであり、ローマカトリック教会の独断で教会暦が変更される事は受け入れられるものではなく、新暦採用は[[東西教会の分裂|東西教会の亀裂]]を深めた。しかしやがてこの暦はプロテスタント諸国・正教諸国を含めた世界中で採用されることになり、現代に至っている。ただし正教会に属する教会のうち幾つかの教会([[エルサレム総主教庁]]、[[グルジア正教会]]、[[ロシア正教会]]、[[セルビア正教会]]、[[日本正教会]]など)では、当該地域の世俗国家はグレゴリオ暦を使用していても([[イスラエル]]、[[ロシア]]、[[日本]]など)、依然として教会内ではユリウス暦が使用されている。
 
また、法学者としてピウス5世時代に始められた[[教会法]]の改訂もおこなわせており、『教会法集成』として完成させた。
 
政治的には教皇はイスラム教国への対抗姿勢を示しつつも、プロテスタント諸国の動向が気になっていた。彼は聖職者養成のため、多くの神学校を設立し、[[イエズス会]]の教育事業を強力に後押ししている。この時代、イエズス会は多くの学校をヨーロッパに設立している。中でも有名だったのが、ローマにあったローマ学院である。これは優れた聖職者を養成するために設立されたものであったが、教皇はローマ学院に大規模な援助を行い、その規模を拡張させた。教皇のこの業績はこの学校の現在もつづく名称である「[[グレゴリアン大学]]」という名前に記念されている。
 
カトリック諸国のリーダーとして、教皇が[[ギリスのングランド]]王[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の統治の転覆を支援したことはイギリスにおいてカトリック教徒が敵視される原因をつくってしまった。[[1578年]]には自らの軍勢を与えたトーマス・スタークレーに命じてイギリスの膝元であった[[アイルランド]]の侵攻をおこなわせようとしたが、スタークレーは与えられた軍をもってポルトガル王[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン]]と合流し、[[モロッコ]]攻撃([[アルカセル・キビールの戦い]])をおこなってしまったため企図は果たせなかった(スタークレーとセバスティアンは戦死)。[[1572年]]8月にフランスで[[サン・バルテルミの虐殺]]が起こってプロテスタント支持者たちが多数殺害されると、「テ・デウム」を歌って神を賛美し、記念メダルを作らせている。ただ、この教皇の行動はプロテスタントの死を喜んだのではなく、フランス王や実行者側がこの虐殺事件を、王に対する反乱の計画者たちの誅殺であると国外に巧みに喧伝したため、それを教皇が信じていたためという見方もある。
 
ローマにおいては[[サン・ピエトロ大聖堂]]にグレゴリウス聖堂を建築し、[[1580年]]には現在でも首相公邸として用いられている[[クイリナーレ宮殿]]を造営させている。さらに[[ディオクレティアヌス浴場]]を穀倉に改造もしている。これらの資金は教皇領内の資産を没収するなどしておこなったため、貴族たちの反感を集め、統治に混乱をきたすことにもなった。また、愛人との間にもうけた庶子[[ジャコモ・ブオンコンパーニ|ジャコモ]]を引き立てて、[[サンタンジェロ城]]の城主、教皇領国務長官などに抜擢している。教皇の歓心を買おうとした[[ヴェネツィア共和国]]はこのジャコモを貴族に加え、スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]は将軍位を与えている。
 
ちなみに[[天正遣欧少年使節|天正遣欧使節]]の少年たちはこの教皇の最晩年に謁見を受け、ローマで大歓迎を受けた。なお、現存する最古の教皇冠はグレゴリウス13世時代のものである。
 
{{Commons|Gregorius XIII}}
 
{{ローマ教皇|第226代: 1572年 - 1585年}}
 
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