「シャミール」の版間の差分

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1854年、シャミールは、[[グルジア]]のカヘチアに遠征した。彼が派遣した先遣部隊は、ダヴィド・チャヴチャヴァゼ・ツィナンダリ大公の領地に入り、大公の妻アンナ・イリイニチナ・チャヴチャヴァゼと彼女の2人の子供、彼女の妹ヴァルヴァラ・オルベリアナと彼女の子供を捕虜にした。シャミールは、息子を解放する取引材料となると考えて、彼女達を丁重にもてなした。チャヴチャヴァゼ大公には、長男ジャマルディンの引渡しと銀貨100万ルーブルが要求されたが、大公は4万ルーブルしか集められなかった。
 
その間、この事件の詳細とシャミールの要求は、直ちにペテルブルに知らされた。ジャマルディン(ロシア名:ジェマル=エディン・シャミーリ(Джемал-Эддин Шамиль))を可愛がっていた[[ニコライ1世]]は、彼をウランスク連隊([[ポーランド]]駐屯)から呼び寄せ、父親の元に帰る意思について尋ねた。ジャマルディンは少し考えた後、そのことに同意した。ニコライ1世は、彼の誠実な勤務に感謝し、父親に悪意はないことを伝えるように頼んだ。
 
1855年3月10日、両者の捕虜交換が行われた。ロシア帝国軍の制服を着て戻ったジャマルディンを見て、弟のガジ=マホメドは驚き、チェルケースカ(カフカーズ山岳民族の襟のない裾長のコート)に着替えるように頼んだ。息子と再開したシャミールは、表情には表さなかったが、彼を長い間抱きしめて話さなかった。しかしながら、ロシア流の教育を受け、後にロシアとの和平を主張したジャマルディンは、故郷の理解を得られなくなっていく。
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1859年9月15日、シャミールは、[[ハリコフ]]郊外のチュグエフ村でアレクサンドル2世に謁見した。皇帝は、シャミールに金のサーベルを贈り、「最終的にロシアに来てくれたことを非常に喜ばしく思う。もっと早く来てくれなかったことが残念だ。後悔することはないだろう・・・」と語った。
 
投降後、シャミールは、ロシアの各都市において、「カフカーズの[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]」として歓迎された。[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]では武器工場を見学し、豪華な武器と名前入りの[[サモワール]]を贈られた。ペテルブルでは、名誉警衛隊と軍楽隊が出迎え、皇帝の即位式すら凌ぐイルミネーションが灯された。彼がペテルブルを去る際には、見送りの群集が駅に殺到し、出発が遅れるほどだった。
 
1859年10月、シャミールは、次男のガジ=マホメドと数人の信頼できる盟友と共に、カルーガに転居した。
 
=== 余生 ===
晩年、シャミールは、死ぬまでに[[メッカ]]を巡礼したいと考えるようになり、1861年7月、皇帝に陳情するために[[ツァールスコエ・セロー]]を訪れたが、この時は許可されなかった。同年、三男マホメド=シャピは、ロシア帝国軍入隊を父に申し出た。シャミールはこれに同意した。間もなく、マホメド=シャピは、騎兵少尉としてカフカーズ皇帝護衛隊の近衛騎兵隊に入り、妻と共にペテルブルに去った。
 
メッカ巡礼が許可されないのは、皇帝が自分を疑っているからだと考えたシャミールは、ロシア国籍の取得を皇帝に申し出た。アレクサンドル2世は、この申し出を大いに喜び、アレクサンドラ皇女の結婚式に彼を招待した。1866年8月、シャミールは、息子のガジ=マホメド、マホメド=シャピと共にロシアへの忠誠を宣誓した。皇帝は彼の健康を案じて[[キエフ]]に移ることを勧め、1868年12月、シャミールは家族と共にキエフに転居した。