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[[ファイル:Lady with unicorn by Rafael Santi.jpg|thumb|230px||ジュリアの肖像画と思われる「一角獣と貴婦人」、[[ラファエロ]]画]]
'''ジュリア・ファルネーゼ'''(Giulia Farnese、[[1474年]] - [[1524年]][[3月23日]])は、[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の愛妾の1人。「麗しのジュリア」を意味する'''ジュリア・ラ・ベッラ'''(Giulia la bella)と呼ばれた。ロレンツォ・プッチは彼女を「最上の目の保養」と呼び、アレクサンデル6世の息子[[チェーザレ・ボルジア]]は彼女について「暗い色をしたその黒い瞳は、丸みを帯びた顔に独特の情熱を与えている」と述べている。
== 生涯 ==
ジュリアは[[イタリア]]、[[ラティウム]]地方の[[カニーノ]]で、[[モンタルト・ディ・カストロ|モンタルト]]の領主ピエルルイージ・ファルネーゼ(1435年 - 1487年)と、その妻ジョヴァンナ・カエターニの間に3番目の子供として生まれた。母の実家[[カエターニ家]]は教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]
1489年5月21日、15歳のジュリアは[[ローマ]]で[[オルシーノ・オルシーニ]]と結婚した。オルシーノの母親[[アドリアーナ・デル・ミラ]]は野心家で、教皇庁国務副長官ロドリーゴ・ボルジア枢機卿(
またジュリアと教皇の愛人関係のおかげで長兄のアレッサンドロは枢機卿の地位を得た。このため詩人[[パスクイーノ]]はファルネーゼ枢機卿を「スカートの枢機卿」と呼んだ。
ジュリアはラウラという娘をもうけた。ラウラの父親がオルシーノとアレクサンデル6世のどちらなのかは判然としない。マリア・ベロンチはジュリアが夫オルシーノと夫婦関係を保っていたという証拠の存在を信じている。事実がどうであれジュリアは生まれた娘の父親を教皇であると主張した(つまり婚外子だとした)が、これは娘の将来の結婚をより有利なものにするためだったかも知れない。1494年、ジュリアは死の床についていた弟アンジェロを[[カポディモンテ]]に見舞ったとき、教皇の怒りを買った。彼女は夫オルシーノの命令により弟の死後もローマから遠ざけられた。しかしオルシーノは最終的にはジュリアを呼び戻したい教皇による圧力に屈し、ジュリアは愛人の許に戻ることになった。この
ジュリアは1499年ないし1500年まで教皇の愛人であったが、この時期には年齢を重ね、教皇の寵愛を失ったように思われる。ベロンチは2人の関係がアドリアーナの友好的なとりなしによって終わったと考えている。夫オルシーノもこの時期に亡くなった。ジュリアはローマからそう遠くない[[カルボニャーノ]]に移り住んだ。この町はアレクサンデル6世がオルシーノに与えたものだった。教皇は3年後の1503年に死んだ。
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ジュリアは1505年、娘ラウラの結婚式に出席するためローマを訪れた。ラウラはアレクサンデル6世の後を継いだ新教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の甥ニッコロ・デッラ・ローヴェレと結婚した。ジュリアは娘を嫁がせたあとも恋愛の情熱を冷ますことはなかった。名前の知られていない何人かの恋人をもち、寡婦となった翌年の1501年には、[[ナポリ王国|ナポリ]]の下級貴族ジョヴァンニ・カぺケ・ディ・ボッズートと再婚した。1506年、ジュリアは[[カルボニャーノ]]の支配者となった。ジュリアは町の城塞に住まい、のちには町の城門に彼女の名前が刻まれた。町の年代記は、ジュリアが断固とした態度をとる精力的な統治者で、有能な行政手腕の持ち主だったと述べている。ジュリアは1522年までカルボニャーノにいたが、その後彼女はローマに帰った。
ジュリアは1524年、兄アレッサンドロ枢機卿の邸宅で亡くなった。50歳だった。死因ははっきりしない。その10年後の1534年、アレッサンドロは
== 参考文献 ==
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