「ギリシャ第一共和政」の版間の差分

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独立戦争も後半に至るとオスマン帝国は[[エジプト]]より[[メフメト・アリ]]の息子[[イブラヒム・パシャ]]{{#tag:ref|ただし、オスマン帝国の配下であったというわけではなく、メフメト・アリは事実上エジプトの支配者であり、名目上、[[スルタン]]の配下という形にすぎず、この時、オスマン帝国スルタン、[[マフムト2世]]が同盟を結び、利権を分配するという約束の元、派兵してもらったというのが正しい<ref name="R35">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)p.35]].</ref>。|group=#}}を派遣、[[クレタ島]]、[[アテネ]]が占領され、ギリシャ軍は苦境に陥り、独立戦争の継続も困難な状態と化しつつあった。しかし、ここに至って列強国、イギリス、フランス、ロシアは態度に変化を示した<ref name="G283"/><ref name="R36">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)p.36]].</ref>。
 
1825年、ギリシャの窮状を危惧したイギリス外相[[ジョージ・カニンガム]]はギリシャ人指導者が提案した仲裁案は拒否したが{{#tag:ref|この仲裁案にはギリシャがイギリスの保護領になるという提案が含まれており、イギリス、[[フランス]]、ロシア三国はそれぞれ、ギリシャの窮状を自国の利益にするのではないかと危惧しており、抜け駆けは許されない状態であった<ref name="R36"/>。|group=#}}、使節団をロシアに派遣、[[1826年]]4月、イギリスとロシアとは『ペテルブル議定書』を調印、オスマン帝国を宗主国とするギリシャ自治国の構築を確認、ギリシャ独立戦争への介入を開始した。また、オスマン帝国に強い影響力を持っていた[[フランス]]はこれに同調、『ペテルブル議定書』は1927年、『ロンドン条約』へ発展、三国は正式に介入を開始<ref name="R36"/>、この介入により、列強三国はギリシャへの強い影響を持つこととなり、ギリシャ国内で『イギリス派』『ロシア派』『フランス派』に分かれ、ギリシャ国内の各派閥の傾向も明らかになった<ref name="G284">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.284]].</ref>。
 
[[ファイル:Corinth. Apocorinthus of Corinth engraving by William Miller after H W Williams.jpg|thumb|250px|当時のギリシャを描いた絵画]]