「原爆ドーム」の版間の差分

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== 位置 ==
所在地は[[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[大手町 (広島市)|大手町1丁目]]10。原子爆弾投下の目標となった[[相生橋]]の東詰にあたり、[[南]]には[[元安川]]を挟んで[[広島平和記念公園]]が広がっている。北は[[相生通り]]を挟んで[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]と向き合う。[[東]]側約200[[メートル]]の位置に、[[爆心地]]に比定される[[島病院|島外科]](島病院)がある。
 
== 歴史 ==
=== 建設の経緯 ===
[[広島市]]は、[[日清戦争]]で[[大本営]]がおかれたことを契機に[[軍郷|軍都]]として急速に発展していった([[広島大本営]]の項を参照。[[統帥権]]をもつ[[明治天皇]]が行在し、[[広島臨時仮議事堂]]において第7回[[帝国議会]]も開催された。[[明治維新]]以降、[[首都機能]]が[[東京]]を離れた唯一の事例である)。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。[[1910年]](明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の[[1915年]]([[大正]]4年)に竣工した。
 
=== 竣工 ===
[[1915年]]([[大正]]4年)[[4月5日]]に竣工、同年[[8月5日]]に開館した。設計は[[チェコ]]人の[[建築家]][[ヤン・レッツェル]]([[w:Jan Letzel|Jan Letzel]]も参照。「ヤン・レツル」との仮名表記もしばしば使用される)。[[バロック建築|ネオ・バロック]]的な骨格に[[ゼツェシオン]]風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。レッツェルの起用は、当時の[[寺田祐之]][[広島県知事一覧|県知事]]によるものであり、寺田は前職の[[宮城県]]知事時代、レッツェルの設計した[[松島パークホテル]]を見て彼に物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。さらに同じ頃レッツェルは宮島ホテル([[1917年]]竣工。現存せず)の設計も手がけている。設計料は45754,575[[ (通貨)|円]]。当時広島市の土地は坪当たり24銭から4円で、石工の日当は90銭から1円10銭、[[新橋駅|新橋]]-[[広島駅]]間の汽車の運賃は三等で5円17銭、二等7円75銭、一等13円33銭で、広島市の人口は13万であった。
 
=== 原爆投下までの沿革 ===
[[1919年]]([[大正]]8年)[[3月4日]]から物産陳列館で開催された「[[似島]][[ドイツ|独逸]][[捕虜|俘虜]]技術工芸品展覧会」では、日本で初めて[[バウムクーヘン]]の製造販売が行われた。これは[[第一次世界大戦]]中に[[中華民国の歴史|中国]]の[[青島市|青島]]で[[日本軍]]の捕虜となり、広島湾に浮かぶ[[似島]]の[[似島検疫所]]内「俘虜収容所」に収容されていた[[ドイツ]]人の菓子職人[[カール・ユーハイム]]によるもの。カールは後に[[神戸市]]で[[ユーハイム|株式会社ユーハイム]]の前身となる喫茶店「JUCHHEIM'S」を創業する<ref>[http://www.juchheim.co.jp/group/baumkuchen/index.html ユーハイムグループ:バウムクーヘン]</ref>。このことから、3月4日は「バウムクーヘンの日」とされている<ref>[[http://www.kinenbi.gr.jp/ 日本記念日協会]]</ref><ref>読売新聞全国版 2010年1月31日付朝刊</ref>。
 
[[1921年]]に'''広島県商品陳列所'''と改称し、同年には第4回[[全国菓子大博覧会|全国菓子飴大品評会]]の会場にもなった。[[1933年]]には'''広島県産業奨励館'''に改称された。この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献した。しかし、戦争が長引く中、[[1944年]][[3月31日]]にはその業務を停止し、[[内務省 (日本)|内務省]][[中国地方整備局|中国四国土木事務所]]・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。
[[広島市への原子爆弾投下]]も参照。
 
[[1945年]][[8月6日]]午前8時15分17秒([[日本標準時|日本時間]])、[[アメリカ軍]]の[[B-29_(航空機)|B-29]]爆撃機「[[エノラ・ゲイ]]」が、建物の西隣に位置する[[相生橋]]を投下目標として[[原子爆弾]]を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約580メートルの地点で炸裂した。
 
原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に[[衝撃波]]を伴う秒速440メートル以上の[[爆風]](参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万[[パスカル]]という爆風圧(1[[平方メートル]]あたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。
 
ドーム部分が全壊しなかった理由として、
*[[衝撃波]]を受けた方向がほぼ直上からであったこと<ref>爆心地の[[島病院]]はドームから見て東南東方向にあり、厳密には爆風の力は斜め上からかかっている。そばで見ると、ドームの鉄骨が西北西方向に傾いているのが肉眼でもわかる。</ref>
*[[窓]]が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと
*ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。[[銅]]は[[鉄]]に比べて[[融点]]が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと
 
=== 「原爆ドーム」としての再出発 ===
広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まった。その中で鉄枠のドーム形が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]により[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]][[占領]]が終わる[[1951年]]頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた<ref>[http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/ireihi/tour_38.html 広島平和記念資料館ウェブサイトより「原爆ドーム」]</ref>。
 
復興が進む中で、廃墟など危険建造物の除去が進められたが、原爆ドームの除去はひとまず留保され、[[1955年]](昭和30年)には原爆ドームを基軸とする「[[広島平和記念公園]]」が完成した(原爆ドームは公園の北端にあたる)。
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