「クレメンス1世 (ローマ教皇)」の版間の差分
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Kinno Angel (会話 | 投稿記録) 確かにクレメンス第一書簡はコリント宛ですが、パウロによる「コリントの信徒への手紙」とは全くの別物… |
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史実の裏づけはないが、伝承では[[ペトロ]]を直接知る人物であり、[[パウロ]]の書いた「[[フィリピの信徒への手紙]]」4:3に現れるクレメンスとは彼のことである、といわれてきた。
彼の手によるといわれる「[[
伝統的にクレメンスに帰された「[[
死についての詳細は不明であるが、彼も初期のローマ司教たちと同じように[[殉教]]したと推測される。[[東ローマ帝国]]の版図となっていた[[クリミア半島]]の[[ケルソネソス]]で[[致命者|致命]]したという伝承があり<ref>『諸聖略伝 十二月』71頁、[[日本ハリストス正教会]]府主教庁(2004年1月発行)</ref>、既に[[キリスト教]]が[[黒海]]沿岸のギリシア植民市に広まっていたことが示されている。ただしこの地域における[[キリスト教]]は、[[ルーシ]]内陸部にまでは定着しなかったとされる<ref>黒川知文『ロシア・キリスト教史』42頁(教文館、1999年初版)</ref>。
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