「上杉氏」の版間の差分

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{{和暦|1598}}、景勝は隣国の[[会津藩|会津]]に移封され、[[陸奥国]]の会津・[[白河藩|白河]]・[[田村郡|田村]]・[[安達郡|安達]]・[[福島藩|信夫]]・[[伊達郡|伊達]]・[[庄内]]([[田川郡 (羽前国)|田川郡]]と[[飽海郡]])・[[置賜郡|置賜]]、[[東蒲原郡|東蒲原]]および[[佐渡国]]などに91万石を領有するが、{{和暦|1600}}の[[関ヶ原の戦い|関ヶ原の役]]に際して[[徳川家康]]に敵対し、[[米沢藩]]30万石(置賜、伊達)に減封された。
 
{{和暦|1664}}、景勝の孫[[上杉綱勝|綱勝]]が急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の舅[[保科正之]]([[徳川家光]]の実弟)の尽力により、妹婿[[吉良義央]]([[上野介]]、扇谷上杉家の[[女系]]子孫)の子[[上杉綱憲|綱憲]]が綱勝養子入りした結果、半知15万石で家名存続することを許された。[[上杉斉憲]]の代に18万石に加増される。
 
上杉氏は相次ぐ減封により規模を縮小させたが、越後の[[春日山城|春日山]]から持ち込んだ上杉謙信の遺骸を漆で密封した甕を[[米沢城]]の本丸内に安置し、謙信崇拝に基づいた誇り高い士風を守った。また、減封のため財政難に悩まされたが、江戸時代後期には[[上杉鷹山]](治憲)が藩の殖産興業を行って財政を立て直した。