「士大夫」の版間の差分

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彼ら士大夫は自らの学識を持って出仕したという自負心からか、唐代以前に比べて自らの力を持って国家を支えるという気概を持っていた。そのことを表す有名な言葉として[[范仲淹]]の「'''先憂後楽'''」がある。范仲淹は後世に士大夫の理想像として仰がれた人物であり、この言葉の意味は「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみの後に楽しむ」と言う天下国家を自らが背負うと言う意気込みが表れた言葉である(後に[[後楽園]]の名称の元となった)。宋四代[[仁宗 (宋)|仁宗]]期には范仲淹を初めとして数々の名臣と呼ばれるものが登場し、政界で活躍した。その様は[[朱子|朱熹]]によって『[[宋名臣言行録]]』に纏められている。
 
また士大夫は文人でもあり、宋代に士大夫たちが作った新しい文化の流れが多数生まれている。文学に於いては[[欧陽脩]]らの[[古文復興運動]]に表れる。古文運動とは[[六朝時代]]以来[[四六駢儷体]]と呼ばれる文の美しさを重視した文体から脱却し、それ以前の質実剛健な文章への復帰を目指す運動である。また[[漢詩]]に於いてはそれまで多かった[[抒情詩]]から[[叙事詩]]が中心になったことが挙げられる。これらは士大夫たちの、より主体的でより理性的であるべしと言う考えから生まれたと考えられる。また思想・学問に於いては士大夫のための新しい[[儒学]]の姿が模索され、さまざまな学派が形成された。そのなかでより実践的な道学も誕生し、士大夫が現実の世界で求められる像を求めて窮理が進められた。後に道学は朱熹によって大成された[[朱子学]]によって代表されるようになる。
 
しかしその一方で「三年清知府、十万雪花銀」と言う言葉がある。三年地方官を勤めれば賄賂などで十万両くらいは貯めることが出来ると言う意味である。また科挙合格者を出した家は[[官戸]]と呼ばれるようになり、[[職役]]の免除や罪を金で購うことが出来ると言った数々の特権を有していた。このようなことから一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚にすることは最も儲かる商売であったとも言える。このようなことを「'''陞官発財'''」(官が陞(昇)れば、財が発する)と言う。