「カルルク」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Stukn (会話 | 投稿記録)
m →‎参考資料: 山田信夫 (歴史家)
編集の要約なし
27行目:
貞観13年([[639年]])、西突厥の[[乙毘咄陸可汗]](在位:[[638年]] - [[653年]])は[[阿史那賀魯]]を立てて葉護(ヤブグ:官名)とし、多邏斯([[タラス川|タラス]])川に住まわせた。これによって阿史那賀魯は処密,処月,姑蘇,歌羅禄,弩失畢の五姓の衆を統べることとなった。
 
貞観20年([[646年]])頃、[[東突厥]]の阿史那斛勃が[[車鼻可汗|乙注車鼻可汗]]と称して自立すると、西の歌羅禄(カルルク)は北の結骨([[キルギス人堅昆|キルギス]])とともに車鼻可汗に附いた。
 
貞観23年([[649年]])、[[太宗 (唐)|太宗]]は右驍衛郎将の[[高侃]]に命じて[[迴紇]](ウイグル)部・僕骨(ボクトゥ)部などの兵を招き寄せて車鼻可汗を襲撃させると、歌邏禄(カルルク)の泥孰闕俟利発(でいしゅくキョルイルテベル:部族長)や拔塞匐部・処木昆部の莫賀咄俟斤(バガテュルイルキン:部族長)らが部落を率いて車鼻可汗に背き、相次いで[[唐]]に投降してきた。その後、唐は阿史那賀魯の部落を賀魯州とし、葛邏禄(カルルク)と挹怛([[エフタル]])の2部を併せて葛邏州とし、[[雲中都督府]]に属させた。
41行目:
[[開元]]([[713年]] – [[741年]])の初め、カルルクは再び唐に来朝した。
 
[[天宝 (唐)|天宝]]([[742年]] - [[756年]])の時、回紇([[ウイグル]]),拔悉蜜([[バシュミル]])と共に東突厥の[[烏蘇米施可汗]](オズミシュ・カガン)を攻め殺した後、回紇と共に拔悉蜜を撃ち、その可汗である阿史那施を北庭に走らせ、京師に出奔した。葛禄(カルルク)は九姓(トクズ・オグズ)とふたたび回紇の葉護(ヤブグ)を立て、[[懐仁可汗]]とした。ここにおいて葛禄(カルルク)は烏徳犍山(ウテュケン山)を拠点として回紇に臣従し、金山(アルタイ山脈)と[[北庭都護府]]に在って葉護として自立し、毎年来朝した。これに久しく、葉護頓毘伽(ヤブグ・トン・ビルゲ)は突厥叛酋の阿布思を捕縛したので、金山郡王に封ぜられた。天宝の間は5回来朝した。
 
天宝10載([[751年]])、[[ズィヤード・イブン=サーリフ]]の率いる[[アッバース朝]]軍と[[高仙芝]]率いる唐軍が、[[天山山脈]]の西北麓のタラス河畔で衝突した([[タラス河畔の戦い]])。この時、葛邏禄(カルルク)がアッバース朝軍に寝返ったために唐軍は壊滅し、大敗北を喫した。
50行目:
 
===カルルク国とカラハン朝===
[[766年]]にイリ地方を占領したカルルクは、その後も[[モンゴル高原]]の[[ウイグル可汗国]](回鶻)と敵対しながら勢力を保ったが、あくまでヤブグ(Yabγu)の称号を帯びてカガン(Qaγan)号を用いなかった。それはウイグルを[[宗主国]]とみなしていたためだと思われ、『[[カラ・バルガスン碑文]]』には、「ウイグルが征西した際、[[フェルガナ]]でカルルクのヤブグをカルルク王に冊立した」ということが書かれている。しかし、カルルクとウイグルが東西で対立していたということは確かであり、それは『[[シネ・ウス碑文]]』によってわかる。
 
[[840年]]、ウイグル可汗国は内乱の最中に北方のキルギスの大軍に襲撃され、ウイグルの可汗が殺された。これによって[[モンゴル高原]]のウイグル可汗国は崩壊し、その残党が西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた。これが[[天山ウイグル王国]]であり、別の一部はさらに西へ移動して[[ベラサグン]]に至り、カルルクと合流した。