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小説『[[三国志演義]]』には登場しない人物である。[[蒋済]]は王凌を文武を兼ね備えた人物だと評している。[[192年]]に叔父の王允が[[李カク|李{{lang|zh|傕}}]]らによって殺害されると、兄の王晨と共に城壁を乗り越えて、郷里の[[太原]]郡'''[[祁県]]'''(現/[[山西省]][[太谷県]])に逃げ戻った。後に[[孝廉]]に推挙され、発干[[県長]]・中山[[太守]]を歴任した。やがて[[曹操]]に認められて中央に進出し仕えた。
 
[[222年]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[呂範]]との戦いの功績で建武将軍となり宜城亭侯に封じられた。[[241年]]、呉の[[全ソウ|全琮]]を撃退し、[[秦晃]]を戦死させた。この功績により南郷侯に爵位が進み、[[車騎将軍]]となった。
 
王凌は統治能力に非常に優れており、[[兗州]][[青州 (山東省)|青州]][[豫州]][[揚州]]の[[刺史]]になったが、人民は王凌の統治を絶賛している。王凌は特に[[司空]]・[[太尉王基]]とともなっ荒廃した青州の政治を立いる直した時は、民に非常に称えられた
 
[[241年]]、王凌は呉の[[全ソウ|全琮]]を撃退し、秦晃を戦死させた。この功績により南郷侯に爵位が進み、[[車騎将軍]]となった。その後、[[三公]]の[[司空]]・[[太尉]]を歴任した。
 
[[249年]]、甥の[[令狐愚]]と共に魏の[[皇帝]]・[[曹芳]]の廃位を企み、楚王[[曹彪]]の擁立を企てた。曹芳が年少で頼りなく、[[司馬懿]]のような権臣が勢力を振るうので、年長の曹彪に代えようとしたのである。長子の王広が激しく諫めたが、王凌は取り合わなかった。令狐愚の死後も計画を進めたが、[[251年]]、司馬懿に察知されて失敗し、降伏した。その後、司馬懿が自分を誅殺するつもりであることを悟り、護送の途中[[賈逵 (魏)|賈逵]]を祀った廟の前を通りかかると、「梁道(賈逵の字)どの、この王凌はもとより魏の社稷に忠実な男です。あなたに神格があるのなら、ご存知のはずです」と叫んだという。そして、都に護送する途中で王凌は'''項'''という所で服毒自殺した。齢80。やがて、計画を諫めた長子の王広らと孫・曾孫らを含めて、王凌の三族は[[処刑]]された。